表紙

 -28- 事件の経緯




 ミレイユは棒を呑んだようになった。
 母親が消えた? それはいったい、どういうことなのだろう。
 膝で握った拳を見つめながら、テオフィルはゆっくり言葉を継いだ。
「考えてみると、母は今のわたしとだいたい同じ年頃なんだな。 当時はずいぶん大人に思えたが。
 母は明るかった。 顔立ちをはっきり思い出せないときもあるが、母の笑顔だけはいつも瞼に浮かぶ。 口が大きめで、実に楽しそうに笑う人だった。
 だが、姿を消す前日は違った。 珍しく父と言い合いをしていて、涙声が廊下まで響いていた。
 わたしは子供だったから、子供部屋から出ておろおろしていた。 あまり喧嘩をしない両親なので、びっくりして怯えたんだ。
 でも、騒ぎが収まった後、母はわざわざ階段を上って三階の子供部屋まで来て、わたしを抱いてくれた。 赤ん坊のように揺すってくれたのが最後の記憶だ」
 そこで間が空いた。 ミレイユはためらいながら、そっと口にした。
「お母様はあなたを可愛がっていらしたのね」
 ゆっくり指を開いて、テオフィルはなめらかな敷布を撫でた。
「そうだろうな。 嫌な思い出がないから。
 でも、もしかしたら、それが別れの挨拶だったのかもしれない。 翌日は朝から姿が見えず、母つきの小間使いが騒ぎ出したのが昼頃だった」
「それっきり?」
「そうだ。 これといった荷物を持ち出した様子はなかったらしい。 だが、現金と宝石がごっそり消えていたそうだ。 それに、母の馬も」
「お母様の鞍をつけた馬屋番は?」
 テオフィルは、暗い目を妻に向けた。
「いいところに気がついた。 いなかったんだ。 前の晩、馬屋番のフィケが熱を出して寝ていたせいで、助手の少年が全ての仕事をやる羽目になり、疲れきって寝坊した。 その日の朝には、誰も馬の傍にはいなかった」
 つまり、誰かが夫人の馬に鞍を装着し、一緒に去っていったということなのか。
「それっきり?」
「そうなんだ。 母は消えた。 まるで霧に巻かれたように。 その朝、誰も母と馬を目撃していないし、それからずっと今日まで、誰一人消息を伝えてこない」


 なんという悲劇だろう。
 私の夫は、誰よりも愛してくれると思っていた母を、突然失ったのだ。 わけがわからず、行方も知れないままで。
「それで、お父様は?」
 テオフィルは辛そうに首を振った。
「最初は認めなかった。 二週間ぐらいは雇い人や専門家を使って探し、帰ってくると言い張っていた。 でも一ヶ月ほどで諦めて、愛人を作った」
「まあ……」
 ミレイユは、何と言っていいかわからなかった。 父親の怒りと寂しさに思いをはせると同時に、放っておかれたらしいテオフィルへの同情を強く感じた。
「あなたにご兄弟は?」
「いない。 初めから一人っ子だった」
 ますます寂しい境遇だ。 ミレイユは衝動的に、彼の手を取った。
「広い屋敷に、友達もなしで?」
「いや」
 話をし出してから初めて、彼の目に輝きが宿った。
「遊び相手はいた。 家令の息子や下働きの子だ。 彼らはたいていわたしより年上で、いろんなことを教えてくれた。 喧嘩の仕方や泳ぎ方、猟銃の弾の込め方などだ」
 貴族の子が下働きと遊ぶなんて、気取り屋の叔父ジュスタンが聞いたら、頭に血が上るにちがいない。 ミレイユは少し愉快になって、夫がますます身近に感じられた。






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