表紙

 -23- 旅の始まり




 馬車に乗って少しすると、空が曇って小雨が降ってきた。 それでも広い馬車の中は快適で、道もよく、あまり揺れないため、向かいに座るジェルメーヌは編物を始め、隣のテオフィルはくつろいで、これから向かう領地の話をぽつぽつと始めた。
「土地は昔ほど広くない。 それでも果樹園と庭園があるし、昔の小作地は人に貸して賃貸料を取っているから、そこそこの収入は確保している」
 うなずきながら、ミレイユはノルマンディの美しい景色を想像した。 天候は変わりやすいが、地形は変化に富んでいて、緑がとてもきれいだという。
「使用人はパリ同様、少なめだ。 わたし一人しか住んでいなかったからね。 でもこれからは君が女主人だから、必要なだけ増やしなさい」
「私もそんなに沢山は要りません」
 ミレイユは慌てて言った。 どこにいても、人が多いのは好きではない。
 するとテオフィルは頭をかしげるようにして横にいる妻に顔を向け、穏やかに尋ねた。
「遠慮する必要はないよ」
「はい。 でも本当よ。 静かなのが好き。 子供のころの楽しみは、こっそり抜け出して庭を歩き回ることだけだった。 自然が大好きなの」
「わたしも好きだ」
 テオフィルはしみじみとした口調になった。
「馬に乗って遠駈けすると、気分がすっきりする。
 君は乗馬が好きかい?」
 ミレイユは困って、下を向くと手を揉みあわせた。
 母が健在だったころは、ポニーに乗るのが楽しみだった。 速くはないが、うまく走らせることもできた。
 でも叔父夫婦に引き取られ、叔母が他界した後は、馬に触らせてもらったこともない。 今でも乗れるだろうか。
「小さいときは毎日のように乗っていたけれど、十歳で止めさせられたんです。 だから今でも乗れるかどうか」
「バランスの取り方がわかっているなら、すぐ思い出すさ」
 テオフィルはこともなげに請けあった。
「難しければ、わたしが勘を取り戻させてあげる。 心配ないよ」
 嬉しい、また乗馬ができる!
 ミレイユは自然に浮かぶ笑いを押さえきれず、にこにこしながら夫を見上げた。


 こうして、旅の初日は気持ちよく過ぎた。
 最初の宿はコンピエーニュの町で、石造りのなかなか立派な旅籠だった。
 案内されて建物に入ると、そこはすぐ食堂になっていて、賑やかな話し声と食器の音、奥で旅の楽師が奏でる流行歌のメロディが入り混じり、雑然とした雰囲気だった。
 夫が傍にいなかったら、ミレイユはきっと入り口でしり込みしたことだろう。 だが、テオフィルの大きな姿がすぐ隣にいて守ってくれると思うだけで勇気が出た。 近くの卓にいた男の客が顔を上げ、無礼なほどじろじろとミレイユの姿を上から下まで眺めたときも、まっすぐ前を向いて無視することができた。
 後ろにジェルメーヌと荷物持ちの使用人を一人従え、ふたり並んで混んだ部屋を通り抜けていたとき、後ろからしゃがれた声が響いてきた。
「あれが『冷血伯爵』の新しい愛人か? もったいないような美人だな。 金で何でも手に入るってことか」






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