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彼のキスは
間もなくジェルメーヌが下がって、ミレイユは一人残された。
とたんに緊張に負けそうになって、ミレイユはガウン姿のまま寝室をそわそわと歩き回り、口に手を当てたり、じっとりにじんできた冷や汗をハンカチで拭いたりしながら、なんとかして気持ちを試練からそらそうと努力した。
やがて、寝室の奥から小さなカチッという音がした。 ミレイユは敏感な兎のように体を強ばらせ、首だけ回して音の方を振り返った。
奥の向こう側は、夫であるテオフィルの寝室に続いているはずだった。 その扉はもう閉じており、すぐ前に、紺色の紋織りのガウンを着た彼が、黙然と立っていた。
その姿を見たとたん、ミレイユの胸に沸き起こったのは、恐れではなく、圧倒的な安心感だった。
これには自分が一番驚いた。 彼が約束を守って来てくれた、というのが、こんなに嬉しいとは。
衝動に突き動かされて、ミレイユは早足で夫に近づき、胸に顔をつけて、そっと寄りかかった。
その様子は、堂々としたライオンにきゃしゃな白鳥が寄り添っているように見えた。
ミレイユが目を閉じると、テオフィルの心臓が大きく鼓動する音が、はっきりと聞こえてきた。 予想よりも速い。 彼もまた、ある程度緊張しているのかもしれなかった。
やがて、がっしりした腕がミレイユの背中に回った。 ミレイユも遠慮がちに、彼の胴に腕を回した。 すると、薄い春用のガウン越しに熱い体温が伝わってきて、もっと強く抱き寄せたくなった。
その瞬間、足が宙に浮いた。
ミレイユはぎょっとなって、固まってしまった。 だがすぐに、軽々と横抱きにされて運ばれていることに気づき、体の力を抜いた。
これまで、こんな風に抱いてくれた人間は記憶になかった。 幼児の頃、父がしてくれたかもしれないが、まったく覚えていない。 母はもともと病弱で、娘を子守りに任せっきりだったと聞いた。
この人は、私が初めて見つけたぬくもりかもしれない──奇妙な予感が、背筋を震わせた。
テオフィルは妻をベッドに下ろし、腕を抜くと、屈んだ姿勢のままで、頬を指でたどるようにして、そっと撫でた。 顔全体を覆えるほど大きな手だが、触れ方は優しかった。
蝋燭を二本灯しただけの薄闇で、ミレイユは優男〔やさおとこ〕というにはあまりにも厳しいテオフィルの、ごつごつと凹凸の多い顔を強調する影を見つめた。 この人もまた子爵とは違う意味で美しい。 私にはそう思える。 むしろ子爵より、好ましい……
空から降ってきたような夫を見つめるミレイユの瞳が、おぼろにうるんだ。
やがて二人の唇が、自然に合った。 彼のキスが上手かどうか、ミレイユにわかるはずはない。 それでも確かなことが一つだけあった。 これからは他の誰にもこんなふうに、激しく親密な口づけはしてほしくない。 ただ彼だけ。 彼の熱く柔らかい唇だけ。
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