表紙

 -15- 結婚の後で




 結婚誓約書にサインを終え、ミレイユは正式にアランブール伯爵夫人となった。 名前もミレイユ・レオニー・ダルシアックと変わったが、慣れるにはもう少し時間がかかりそうだった。


 これで堂々と伯爵の馬車に二人で乗れる。 ミレイユは新婚ほやほやの夫に手を取られて、大型馬車に乗り込んだ。 そして進行方向を向いて並んで座ったが、座席が広いので、間に犬一匹入れるほどのゆとりがあった。
 窓枠に肘を置いて外を眺めながら、伯爵は感情を見せない声で口を切った。
「これから、まず君の家へ行く。 荷造りにはどの位かかるかね?」
 身の回り品はもうまとめてあるし、ピアノや家具のような大物は、きっと伯爵の屋敷にはたっぷり備えつけてあるだろうから、わざわざ持っていく必要はなさそうだ。 だからミレイユは、自信を持って答えた。
「一時間あれば充分です、伯爵様」
 とたんに彼は振り向き、声を低くして静かに言った。
「もう敬語はやめよう。 それにわたしを位で呼ぶのも。 できればテオフィルか、またはテオと呼んでくれ」
 いい名前だわ──ミレイユは訳もなく胸をどきどきさせて、小声で応じた。
「では私も、ミレイユと」
 テオフィルは、少しの間新妻を見つめ返した。 背が高く座高もあるので、頭が馬車の天井近くになり、影が顔に落ちてよく表情が見えない。 何か言いたいことがあるのかと、ミレイユは息を詰めて待った。
 だが結局、彼は何も言わずに、また視線を外に戻した。 間もなく馬車はシヴレー通りに着き、従者が扉を開いて、降りるための段を下ろした。


 ミレイユが使用人たちと荷造りをする間、テオフィルは結婚と同時に彼の名義になった大邸宅をしばらく閉鎖し、執事と家政婦、料理人など最低限必要な使用人だけ残す指示を行なった。 ただし、下男や下働きの女中たちを解雇するのではなく、パリにある伯爵邸に移すことにした。
「わたしの屋敷はここからそう離れていないので、勤めやすいと思う。 向こうに前からいる者は少ないから、君たちが行けばいい助けになるだろう」
 召使たちはほっとして、その申し出を感謝して受けた。


 やがて玄関広間に、荷物が下ろされてきた。 大きなトランクが二個に、手荷物が三個。 その少なさに、テオフィルは喜ぶよりも、むしろ心配げに眉を寄せた。
「遠慮することはないんだよ。 手離したくないものがもっとあるだろう? 馬車は大きいから、後ろの荷物置きだけでなく上にも積める」
 階段を軽やかに下りてきたミレイユは、はにかみながら答えた。
「いいえ、いいんです……いいの。 夏の服はかさばらないし、秋冬の社交シーズンになれば、また流行が変わるから」
「そうか、女性の装いにはうとくてね。 アミアンで好きなだけ作りなさい」
 それから、思い出して顔を上げた。
「ナポレオン法で、妻のものは夫が権利を持つことになったが、すべてを失うと心配することはないよ。 君の名義でパリとアミアンに口座を開く。 形式的にわたしのサインが要るにしても、君の婚資は今までどおり君のものだ。 わたしには充分な財産があるからね」
 この寛大な申し出に、ミレイユは目を見張った。 ナポレオンは典型的な男性上位思想の持ち主で、法律を変え、それまで既婚女性が持っていた財産権をすべて奪ったのだ。






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