表紙

 -14- 苦い過去2




 驚いたことに、アンリエットはすぐにミレイユを庇うようになった。 まだ小さいのに、相手が何を必要としているか、本能的にわかる性格らしかった。
 年上でも世間知らずでおびえているミレイユは、ずっと欲しかった友達を初めて見つけた。 そしてようやく、学校が楽しくなった。
 幸せな三年間。 そう、物心ついてから一番幸福な時期だった。 他の寄宿生たちは、自由がないだのなかなか買物に行けないだのと文句たらたらだったが、ミレイユにしてみれば、尼僧たちに守られ、勉強も教えてもらえる上、アンリエットという親友を通じて他の生徒たちとも少しずつ付き合えるようになって、こんな楽しいところはなかった。


 だから、もうじき卒業という春が駆け足で過ぎていくのは、恐怖そのものだった。 パリに家がある通学生のアンリエットに頼んで、かくまってもらおうかとさえ思いつめた。
 だが、できなかった。 冷たく執念深いうえに、どうやらミレイユの財産を狙っているらしいジュスタン叔父は、彼女が消えたら必死で探すだろう。 そして発見したら、彼女だけでなく、かくまった者たちに容赦なく罰を与えるはずだ。 大事なアンリエットを、そんな危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。
 それで、叔父が迎えの馬車をよこしたとき、使いの者が荷物を運び込んでいる間に、こっそり裏門から逃げた。 当てにしたのは、シヴレー街にあるという大叔母の屋敷だ。
 しかし、ミレイユはパリの町をほとんどといっていいほど知らなかった。 それで方角を間違えて別の道に迷い込み、やくざの手先に捕まってしまった。


 そのときの恐怖は、今でもたまに悪夢となってよみがえる。
 彼女はあっという間に肩に担ぎ上げられ、がらんとした廃屋のような場所に連れ込まれた。 そこにはちぐはぐな服を着た獰猛〔どうもう〕そうな男が何人もたむろしていて、大口開けて笑いながら、誰が先に彼女を抱くかサイコロで賭けを始めた。
 そこへいきなり別の乱暴者たちが扉を蹴破って飛び込んできて、大乱闘が始まった。 侵入者のほうが多数で、ちょっぴり上等な服装をしており、ずっと冷静で恐ろしかった。 彼らはほとんど口もきかずに、前からいた獰猛な連中を次々と殺していったのだ。
 棍棒が肉を叩く不気味な音が響き、刃物がきらめき、血が辺り一面にふりそそぐ。 あまりにも残忍な光景に、ミレイユは気絶してしまい、気がつくと侵入者にまた運ばれて、別の建物の暗い部屋に閉じ込められていた。


 男は怖い。
 もともとジュスタン叔父のせいで男性不信になっていた上、大量殺人にまで巻き込まれて、ミレイユの恐怖は決定的になった。
 ただし、殺人鬼集団かと思われた侵入者たちは、意外にも人身売買だけはしない主義で、ミレイユを仲介者に預けた。 彼女をいいところのお嬢さんと見て、救った礼金を家族から貰おうとしたのだ。
 その仲介者が、奇跡的なことにアンリエットの母親だった……


*  *



 夫となった伯爵のしっかりした顔は、今や焦点が合わないほどミレイユの顔に近づき、夫婦となった証しの口づけが行なわれていた。
 ミレイユは初め、強く痙攣したようにまばたきを続け、緊張と恐れををやりすごそうとした。 だが、温かい唇を押しあてられたとたん、目を閉じた。
 それは、ほんの短い間だった。 衣擦れの音がして彼が離れていくと、ミレイユは夢から覚めたように瞼を上げ、小さく震えた。
 怖かったからではない。 むしろ、予想した恐れが襲ってこなかったのが不思議で、途方に暮れたからだった。






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