表紙

 -11- 約束の指輪




 子爵が肩を落として立ち去ってから、更に二時間後、そろそろ真夜中に近づこうかという頃に、伯爵が戻ってきた。
 上流社会では、夜は夜でなく社交の時間帯で、パーティーや舞踏会が明け方まで続くのは当たり前だ。 だから深夜に客があっても、一般市民ほど驚かない。
 しかし、ミレイユにはそういう生活習慣がなかった。 修道女のようにつつましく、広い屋敷の奥まった部屋に住み、ごくたまに大叔母と礼拝や買物に行くだけで、それも昼間に限られていた。
 だから、子爵との辛い話し合いが終わった後、いっそう疲れて半分眠りながら湯浴みをし、ベッドに転がりこんで、眠りに落ちたところだった。


 それでも、伯爵が馬を飛ばして戻ってきたと聞けば、懸命に起き出してきた。 そして、半分ねぼけながらガウンを着て、急いで階段を下りた。
 伯爵は客間に入るのを断り、玄関広間で乗馬鞭を手に持ったまま、盛んに歩き回っていた。 大きな体のわりには敏捷〔びんしょう〕で、じっとしているのが苦手なようだ。
 やがてミレイユの軽い足音を聞きつけて、彼は顔を上げた。 とたんに動き回っていた足が止まり、鞭を掴んだ手も静止した。
 まとめる間がなく肩に流したままの金髪を揺らして、ミレイユは伯爵に歩み寄った。
「どうでした?」
 伯爵は顎を上げて一瞬目をつぶり、それから答えた。
「うまくいきました。 普通、式は日曜日に挙げるのが決まりだが、特別に明日、木曜の朝九時に、サンメラン教会で執り行なってくれるということです」
 ミレイユは、言いようもなくホッとした。 明日。 明日の昼には、もう私はアランブール夫人だ。 十歳のときから苦しめられつづけた義理の叔父から、やっと自由になれる。 思わず顔が大きくほころんだ。
「ありがとうございます。 お疲れになったでしょう? すぐ部屋を用意させますから、朝までゆっくりお休みになって」
 落ち着いた伯爵の表情が、初めてはっきりわかるほど動いた。 ただし、すぐ普段の顔に戻ったので、それがどんな気分を意味するのか、ミレイユにはよくわからなかった。
「そうできればいいのだが、わたしにも婚礼の支度があるので」
「ああ、そうでした」
 伯爵も急がねばならないのだ。 礼服にふさわしい衣装を選び、身支度を整え、結婚指輪を……
 そこまでミレイユが気づいたとき、伯爵の手がついと動いて、懐から何かを取り出した。
「では、これを」
 長く力強い指が挟んでいるのは、見事なエメラルドの指輪だった。
 ミレイユは息を呑んだ。 大叔母は先祖から伝わったものや、夫から贈られた豪華な宝石を数々持っていて、すべてを又姪の彼女に遺してくれたが、これほど立派なエメラルドはその中にもなかった。
「これは……?」
「婚約の印です。 亡き母のものでした」
「そんな大切な指輪を、私に?」
 ミレイユは感きわまって囁いた。 伯爵は彼女のふるえる手を取り、そっと左手の薬指に嵌めた。 少し大きめで、ゆるかったが、白くほっそりした手に、とてもよく似合った。







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