表紙

 -7- 温かい手が




 もうほとんど子爵で決まり、という雰囲気が、屋敷の中にできつつあった。
 だが、彼がミレイユを送り届けた午後四時十分から二十分ほど経ったころ、馬に乗った丈高い姿が表門から入ってきた。 そのときには、もう小雨は止み、空の雲がわずかに切れて、隙間から夕焼けが放射線状に赤い光を地上に投げかけていた。
 外出着を脱いで、少し喉が渇いたから温めたミルクを飲もうかと思っていたミレイユは、従僕が急いで訪問カードを持ってきたため、びっくりして腰を浮かせた。
「アランブール伯爵が? すぐ降りていきます」


 着心地のいい古着を着てしまったため、あわてて大きなショールで肩を覆って、ミレイユはすべるように階段を下りた。
 伯爵は子爵と同様に、正式な客間に通されていた。 深いワイン色の上着と薄茶色のズボン、それに銀ねず色の縞が入った黒いベストといういでたちで、非常に立派に見えた。
 押し出しがいい──伯爵を前にするたびに、ミレイユは思う。 こんなに堂々とした、真の意味で貴族らしい人は珍しい。 しかも大叔母が太鼓判を押しているのだから、性格も立派なのだ。 恐れ多いほどだった。
「伯爵様、よくおいでくださいました」
 できる限り優雅に膝を曲げてお辞儀しながら、ミレイユは挨拶した。 椅子の背もたれに手を置いて立っていた伯爵も、その手を下ろして丁重に一礼した。
 それから、前置きなしに単刀直入に切り出した。
「実は領地から知らせが来ました。 隣の地主が境界線のことで文句を言ってきて、裁判にかけるといきまいているそうです。
 すぐ戻って処理したいのですが、その前に貴女のお気持ちを訊きたくて、伺いました」
 ミレイユはたじろいだ。 何という率直さ! 無骨といっていい発言だが、言い方は傲慢ではなく、上から目線でもなかった。 ただ淡々と尋ねているだけという印象だった。
 この人にとって、私は事務処理のひとつなのだろうか。
 そう考えると、ふと寂しくなった。 でも、子爵と話すときのように細かく相手の反応を見て気を遣う必要がないと思うと、やや楽になった。
 彼に近づきながら、ミレイユは心から言った。
「ほとんど見ず知らずの私のために、わざわざ来てくださってありがとうございます。 私は世間知らずですし、社交も下手で、立派な家系に嫁ぐ資格があるとは思えませんのに」
 そこでおじけて、思わず頬に手を当てた。
「こんなことを言うと、昔の友達に叱られそうですけれど。 彼女は、よく言っていました。 まず夢を持って、自分のなりたい姿を思い描けば、少しずつでもそうなれるって。
 でも私、理想の姿がないんです。 つまり、決して今の自分に満足してるわけじゃないんですが、どうなればいいのかさえわからなくて」
 懸命に説明しているうちに、ミレイユは手を握り合わせて、祈るような形にしていた。
 その両手を、不意に伯爵の手のひらが包んだ。 分厚く、温かい感触だった。
 ミレイユは声が出なくなり、動くこともできなくなった。 目を丸くして、すぐ前にある伯爵の胸を見つめていると、低い声が頭の上から降りてきた。
「こんなに努力しているのに、まだ足りないという人がいるんですか?」
 ミレイユは、その言葉に吸い寄せられるように顔を上げ、伯爵の目を見つめた。 普段ならそんな大胆なことは想像もできないのに、そのときはじっと、彼の金色がかったはしばみ色の瞳に見入った。
「そういう意味では…… 友達は私をせきたてたり、できないからといってバカにするようなところは全然ないんです。 叱られるといったのは言葉のあやで……ただ私、もっとしっかりしないといけないと、自分でいつも思っていて」
 すると伯爵は、右手をミレイユの手からそっと外して背中に回し、静かに抱き寄せた。






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