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残り雪 70
過去は過去
広くゆったりした車内だから、彼の膝に乗ったままでもそう窮屈ではなかった。
遥は俊治に心置きなく抱きつき、子供のような安心感を味わっていた。
その首筋に、彼の顔が埋まった。
「昨夜はほとんど眠れなかった……」
私もそうだった──外の闇と同じように真っ暗だった夜中の気分を思い出して、遙の瞼が熱くなった。
「君を選んで連れてきた時点で、すでに後悔してたんだ。 オーディション中、ずっと思ってた。 こんなことしたって意味ない、いくら犯人が目立ちたがりのタレント志望でも、うちの会社に応募してくるほどバカじゃないと」
遙の頬に、彼の吐息がかかった。
「でも何か行動しないと、具体的な成果を見せないと、社長がほんとに倒れてしまいそうだった。 信じないかもしれないが、君はある意味、希望の星だったんだ」
皮肉な意味でね、と遙は思った。 だがまだ俊治の話は続いた。
「ただこれだけは信じてくれ。 君がパスポート泥棒だなんて思ったことは一度もない。 そんな危険な人物を、弱ってる社長の世話係にできるわけないじゃないか。 いくらカメラで見張ってたにしても。
僕は応募してきた女性たちの中で、一番ちゃんとした優しそうな人に決めたんだ。 それで、社長が探ろうとしておかしな態度を取ったら、うまくなだめられるようにあそこに泊まりこんだ」
「オーディションまでしなくても、誰か専門の人を雇えばよかったんじゃない? 芝居のうまいタレントさんとか?」
「いや、それはできなかった。 僕も見張られてたからね」
遙は目をむいた。
「えっ?」
俊治の手が、また髪を撫でた。
「社長は心身ともに弱ってたんだ。 それに頭痛を和らげるために使う薬にも副作用があった。 疑い深くなって、しまいには僕まで疑ってきた」
破滅寸前だったのだと、遙にもわかった。 俊治は何かをしなければならなかったのだ。 上司で親友で従兄弟の社長を救うために。
俊治の声が次第にくぐもった。
「でも僕は、いい人を選びすぎた。 社長まで君を好きになりかけて、これじゃまずいと思ったんだろう、意地になって、あんなことを」
天井と廊下の亡霊か…… だが、その暴走行為が二人を結びつけたのだと思うと、今ではもうそれほど社長への怒りは燃え上がらなかった。
「……笑ちゃんが見つかって、本当によかった。 奇跡だよ。 これで体力が戻れば、社長は立ち直れる」
「そうなるといいね」
あまり熱のこもらない調子で言うと、遙は思い切って顔を回し、俊治にキスした。
彼もすぐに、激しく応えた。
数分の後、燃える頬を俊治の肩にゆだねて、遙は訊いた。
「美雪に会ったでしょ?」
「ああ……」
俊治は居心地悪そうに、ちょっと身動きした。
「君と同じ指輪をはめてたね」
そうか、だからわかったんだ。
遥は、こんなにすぐ彼に発見された理由を知った。
「父がお揃いで作ったの。 私があなたのいたカフェに入ったのは、美雪が原因だった」
顔を見られないのを幸い、かっこ悪い打ち明け話を、遥はぼそぼそと語った。
最後まで聞いてから、俊治は一言だけ言った。
「それは彼女が悪い」
やった! ホッとした〜!
親身に味方になってくれる人の心強さを、遥は久しぶりに味わった。 あまり嬉しくて、伸び上がって彼の耳にキスしてしまった。
「ありがとう! でも、気は咎めてたの。 死にそうだと思ったのに放っといて逃げ出したから」
「警察や消防に通報しないで?」
俊治は低く笑った。
「してたら美雪さんは焦っただろうな」
「私の妄想ってことにして、ごまかしたと思う」
「ああ、そうか」
そのとき、二人のお腹がほぼ同時に鳴った。
「おっ」
「あれ」
その声も同時に出て、二人は笑い出した。
「ほっとしたら、急にお腹が空いたみたい」
「行くの、やっぱりカツ屋でいい?」
「いいです〜」
遥に一度頬ずりしてから横にそっと降ろすと、今度は自信に満ちて、俊治はステアリングを握った。
俊治の提案で、二人は奥座敷を取った。
料理を注文して待つ間に、どこの組織にも汚れ役が必要なんだよ、と俊治は言った。 それじゃ社長がいいとこ取りじゃない、と遥が言うと、見る人は見てるから、と俊治は答えた。
そして付け加えた。
「君みたいに」
そう言って微笑んだ顔は、今までで一番明るかった。
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