表紙

残り雪 69

言えぬ苦痛


 遥は一旦、口を開けてから閉じた。
 自信はなかった。 希望的観測かもしれないと、心の奥では思っていた。
 だが、試してみる価値はある。 遥は今でも俊治が好きだった。 思い返すと、きっと最初から憧れていたのだ。 あのときはどうしようもなく取り乱していて、自覚できなかっただけで。
 手を膝の上で祈るように固く握り合わせて、遥はまず言ってみた。
「事情があったわけだし、ここは何でも訴えるアメリカじゃないし。 それに、嫌な気持ちのままでお別れしたくないですし」
 別れ、という言葉で、俊治の顎が強ばった。 かすかな動きだが、緊張で張り詰めた車内で、しかもすぐ近くにいては隠し切れなかった。
 もしかしたら……
 遥の心に、小さな希望の火が灯った。
 俊治はこのまま去りたくないのかもしれない。 何の言い訳もしないけど、それは言っても無駄だと諦めているからかも。
 それで、勇気を振り絞って彼の顔を見つめたまま、声を出した。
「あの……あれを考えてあなたにやらせたの、社長じゃないかって思ったんですけど」


 俊治は、言葉では答えなかった。
 だが、みるみるうちに頬が紅潮し、唇が引き締まって一本の糸のようになった。
 少し待って、遥は愛しさに耐えられなくなり、彼の腕を掴んで揺すぶった。
「そうなんだ! やっぱりやりたくなかったから、あのとき慰めてくれたんだ。 白状させようと本気で思ったんなら、ぜったい追い込んでたはずだもの。 でも何も訊こうとしなかった。 ただ……」
 突然俊治が動いて、言葉が途切れた。 シートベルトが外れ、遥は縫いぐるみのウサギのように軽々と持ち上げられて、一瞬後には彼の胸の中にいた。


 大きな骨ばった手が、壊れ物のようにそっと髪を撫でた。 知らない間に眼をつぶったまま、遥は俊治の膝に体を預けていた。
 何ていい気持ちなんだろう……。
 うっとりする、という言葉の意味を、遥は初めて悟った。 そして改めて、彼を疑っていた間の寂しさと辛さを思った。
「大好き」
 言葉が自然に流れ出た。 すると、遥を抱いている体が熱くなるのが感じられた。
「信じてくれるとは思わなかった」
 低い声が、胸板から直に伝わってきた。
「どうして!」
 彼を信じたくてたまらなかった遥は、小さく叫んだ。
 俊治は、彼女に回した腕にいくらか力を込めた。
「君は社長が好きみたいだったから」
「どうして?」
 なんで同じ言葉しか出てこないんだろうと、遥は自分にうんざりした。 もう逢えないわけじゃないらしいとわかって、嬉しさに気持ちが舞い上がっていた。
「社長はいい男だ。 そうだろ?」
「顔はね」
 遥はのびのびと言い切った。
「それに妹を大事にするのもいい点だと思う。
 だけど私には、そんなにいいとは思えない。 あなたを大事にしないもの」
「それは……」
「あっちが社長であなたは専務だから?」
 俊治は困った様子で、溜めていた息を静かに吐いた。








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