表紙

残り雪 68

落ち込んで


 それっきり二人は言葉をなくしてしまい、車に乗って最初の交差点に着くまで、何も言えなかった。
 そこで信号が黄色から赤に変わり、車は止まった。
 前方に視線を置いたまま、ようやく俊治がぽつりと言った。
「特殊効果のこと、謝ります。 他のことも、いろいろと」
 遥は彼を見ないで答えた。
「はい」
 それから、俊治が言葉を継ぐ前に、急いで言った。
「偽の名前を名乗ってすみません」
 信号が青になった。 車はほとんど音を出さず、なめらかに発進した。
「前の車とちがいますね」
 遥は思わず口に出してしまった。 すると俊治の声がいっそう暗くなった。
「壊れたんで修理に。 これは社長の車。 罰が当たったのかな」
 罰?
 その苦い口調に、遥は本物の後悔を感じ取った。
 車はケヤキの並木が続く広い道路に入っていた。 どこの食べ物屋へ行くつもりなんだろうと遥が考えていると、俊治は工事中のフェンスが建ち並んでいる前で、不意に停まった。
「評判のカツの店があるでしょう? そこへ行こうと思ったんだけど」
 ステアリングに両手をかけて、俊治は小さな唸り声を発した。
「なんか運転に自信なくなってきた」


 彼が落ち込んでいるのは、付き合いが浅い遥にもわかった。 彼女に対する判断を誤ったことで、自信を無くしているのかもしれない。
 車道の端に寄せて停まった車内に、重い沈黙が落ちかかった。 こういうとき居たたまれなくなるのは大抵女のほうで、今度も例外ではなかった。
「脅かした理由は聞きましたから」
と、遥は遠慮がちに言った。 どうも俊治が相手だと、社長ほど強気に出られない。
 すると突然、彼はステアリングから手を離して向き直った。
「それで納得した?」
 ぎょっとなって、遥は反射的に顔を上げた。
 二人の視線が空中でからみ合った。


 彼の目は、本当に辛そうだった。 こんなに赤裸々に感情を表す俊治を見るのは初めてで、遥はたじろいだ。 日頃身にまとっている職業的な仮面が、はがれかけている感じだった。
 それでも、俊治は更に言葉を重ねることはなかった。 ただ黙って、遥の答えを待っている。 まるで打ちのめされたボクサーが、最後の止めを受けるために立ち上がったかのように。
 不意にある考えが遥の脳裏にひらめいたのは、そのときだった。








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