表紙

残り雪 1

初めての日


 バスを降りた後、すぐ交差点を渡った。
 白い線の引かれた横断道から歩道に上がるとき、ショートブーツのつま先が縁石に引っかかって、のめりそうになった。
 肩の少し下まで伸びている髪が揺れ落ち、顔半分を覆った。 急いで払いのけながら歩くと、ショーウィンドーに神経質そうなスキニーパンツとジップパーカー姿が映った。


 振り向きたかったが、必死で我慢した。 パーカーのポケットに入れた右手が、まだ小さく痙攣している。 とにかく、少しでもあそこから離れたかった。 ポケットの中の手が、ぎりぎりで持ち出した四角い財布を、つぶれるほど握りしめた。


 その目が気になり出したのは、やみくもに商店街を歩きつづけて、五分ほど経ったところだった。
 見られてる。
 人ではない。 近頃はどこにでも据えつけられている監視カメラにだ。
 危険信号が頭の中で鳴り響いた。 とっさに、目についた最初の脇道で右に曲がり、次に左へ入った。
 そしてまた五分ほど歩いた。 表通りからは確実に遠ざかっていた。 車の騒音が小さくなってきたのでわかる。 だが、少しも安心はできなかった。


 更にまた五分。
 足が重くなってきた。 踵の七センチあるブーツは、長く歩くには向かない。 それでも立ち止まるのが怖くて、ひきずるように足を運びながら、ぼんやりしていくらかうるんだ目で周りを確かめた。
 そこは住宅街だった。 左側が坂になっていて、石やブロックを積んで車庫を作り、階段で一階に上がっていく形式の家が並んでいた。
 右側は普通の家並みだ。 すでに百メートル以上この道を歩いているが、駐車場が一つあった以外は、すべて住宅だった。
 休めない。 公園は見当たらないし、店もない。 平日の昼下がりで、通行人は皆無。 配達の車さえ入ってこなかった。
 無人の舗装路を、たった一人で歩いていた。 しばらく座れないとなると、いっそう足の疲れが増す。 表通りでタクシーを拾って遠くへ行けばよかった、と、今ごろ気づいた。


 そのとき、風に乗って音楽が聞こえた。
 糸に引かれるように横へ首を向けると、整然とした家並みの中、同じような作りの白壁の家一軒だけに、ひっそりと看板がかかっていた。
「カフェ 青りんご亭……」
 ああ、自宅を改装して隠れ家的な店をやってるんだな、とわかった。 こういう店は予約が必要なことがある。 傍を通っただけの客でも入れてくれますように、と心より願いつつ、七段の階段を苦労して上って、緑色のドアについた昔風のベルを、そっと引いた。
 とたんにドアが開いた。 なんと自動ドアだった。
 あまりにも早かったので、たじたじとなったが、中はほんのり薄暗く、いかにもくつろげそうな雰囲気で、考えるより早く前のめりに入ってしまった。


「いらっしゃいませ」
 左横のカウンターにいた、目が丸くてかわいらしい女主人が、笑顔で挨拶した。 こちらも軽く頭を下げ、ほっとした気持ちで奥へ入っていった。 すると、四つあるテーブルの二つが使われているのが見えた。
 一つには、若い女性が三人座っていた。 お互い微妙に視線をそらしていて、話をしていない。 喧嘩でもしたのか。
 できるだけ目立たないように、窓から離れた椅子に腰を降ろすと、更に奥のテーブルがよく見えるようになった。 そこにはスーツを着た男と、若い娘が向かい合って席を取っていた。
 すぐに水が運ばれてきたので、お品書きを見て、カフェ・ラテとチョコレートケーキを注文した。 女主人が盆を持って去った直後、隣の席の娘が立ち、男にお辞儀をした。
 男も立ち上がって、封筒のようなものを娘に差し出した。
「今日はわざわざ来てくださってありがとう。 今回は条件に合いませんでしたが、またの機会によろしくお願いします。 これは車代です。 取っておいてください」
 ありがとうございました、と娘は小声で言い、バッグを抱えて店から出て行った。


 その後、同じことが三回繰り返された。 横のテーブルの女性たちが一人ずつ呼ばれ、男と面談して、封筒を渡された。
 面接してるんだ、と、ラテを少しずつすすりながら頭の隅で考えた。 だか、ほとんどの意識は外に集中していて、無害そうな店内の客たちを気にする余裕は無かった。
 女たちが残らず姿を消すと、男も立ち上がった。 客が一人になったら目立つだろうか。 まだ足がしびれて痛いし、戸外に出るのは入ってきたときよりずっと怖くなっていた。
 もう一つケーキを注文しよう。 そう思って顔を上げたとき、男に見つめられているのに気づいた。


 動けなくなった。 なんでそんな目で見るの?
 知ってるはずない。 そんなわけない!
 理性ではわかっているが、気持ちがついてこなかった。 逃げ場を求めて、無意識に手が背後を探った。
 男は立ったまま、軽く首をかしげて言った。
「なんでこっちのテーブルに来ないの?」
 やめてよ……!
 これまでの二十一年の人生で、パニクったのは一時間前が初めて。 そして、これが二度目。
 一日に二度、頭が真っ白になった。
 激しく瞬きして、椅子から飛び出ようとした。 いつもなら簡単にできるのに、弱った足首がテーブルにからまった。
 前傾して倒れるところを、男の腕が抱き止めた。
 細身に見えるのに、腕は強靭だった。 軽く持ち上げて、また同じ椅子に戻した後、男は別の椅子を引いてきて前に座り、落ち着いた声で言った。
「君も面接に来たんでしょう? じゃ、まず自己紹介から始めて」




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