表紙

残り雪 56

パスポート


 峰高は、広い玄関ホールの中ごろでぐらりとよろめいた。
 頭の怪我が治りきっていないのに、急に体を折り曲げたため、貧血状態になったらしい。
 あわてて遥が手を伸ばした。 ほぼ同時に笑も飛んできて、二人で支える形になった。
 目をぎゅっとつぶり、髪がくしゃくしゃになるほど両手で押さえつけて、峰高は何とか目まいを止めた。
「大変だ。 僕ら加賀さんにえらいご迷惑をかけてしまった」
 社長は呻き、二人の女性に支えられながら、宇宙遊泳のような格好で歩き出した。


 三人はどやどやとリビングに入り込んだ。 ソファーに座らされた峰高は、しょげた少年のような表情で、すぐ脇に立つ遥を見上げた。
「どうぞそちらに座ってください。 これから事情を説明して、心からお詫びします」
 さっきから詫びる詫びるって言ってるけど…… 自分こそ後ろ暗い遥は、内心困りながらぎこちなく社長を離れ、斜め横の一人用アームチェアーにちょこんと腰掛けた。
 峰高は半ば放心状態で両手を握り合わせ、ポキポキと関節を鳴らしてから、その音で慌てて手を離した。
「どこから話したらいいのか……あの、笑がアメリカで誘拐されてたこと知ってますか?」
「はい、新聞で見ました。 テレビでも」
 峰高はうなずき、視線を下げて手の爪を眺めた。
「僕たち兄妹が交通事故にあったのは本当です。 ただ、場所が日本だと思ったでしょうけど、カリフォルニアでした。
 僕が入院している間に、妹は消えてしまって、どんなに探しても見つからなかった。
 向こうの警察は熱心に捜査してくれないんです。 家出人がすごく多い国だから。 事故を起こしたんで怖くなって逃げたんだろうと言われました。
 何の手がかりもなかったんだけど、十二月の十五日に、笑のパスポートが使われたんです。 誰かがそれを使って、日本に入国したってことで」
 パスポート?
 さっき笑に言われた謎の問いが、遥の記憶によみがえった。
「じゃ、その誰かが私だと?」
「ええ」
 峰高の声が、消え入りそうに小さくなった。 一方、遥はますます何がなんだかわからなくなっていた。
「どうしてそんな!」
「求人広告に応募してきたから。 それに、俊治が飛行機の乗客や乗務員から聞いた話と、あなたが一番よく合っていたから」


 そこでようやく、遥は思い当たった。
 そうだ、カフェで面接してたじゃないか。 だから私はここへ来ることになった……。
「求人広告って……?」
 今度は、峰高と笑の二人揃って、遥を穴かあくほど見つめた。
「え? そんな〜。 知らないはずは」
「私があのカフェに入ったのは、偶然です」
 思わず遥は、力んだ声になっていた。
「ヒール七センチの靴が足に合わなくて、痛くてしょうがないから、休もうとしただけです」


 誰かがちょっとでも声を出したらひびが入りそうな沈黙が、後に続いた。
 それから峰高がもぞもぞと動いた。
「信じらんない。 じゃ、まったくの通りがかり?」
 そのとおり。
 遥はなんだか情けなくなってきて、逃げ出したくなった。
 峰高は低く呻き声を上げると、前のローテーブルに両手をついた。
「こんなことってあるんだな〜。 いや、それでもほんとに申し訳ない」
「どういう求人広告だったんですか?」
 妙な内容に応募したことになってるかもしれないと思うと、遥は黙っていられなかった。 愛人募集とかだったら、それこそ恥の上塗りだ。







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