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残り雪 55
間違いでは
「パスポートって、私のですよ」
それを聞いて、笑の眉が本格的な八の字になった。
「いえ、私のものです。 砂川笑と書いてあるでしょう?」
うわ、もしかして私、パラレルワールドに放り出されたのか?
遥は本気で自分を疑った。
「そんなわけ、ないですよ。 私が手続きして取ったんだから。 それでハワイに行って、しばらく住んでたんですよ」
笑は口をつぐみ、胸を大きく上下させた。
それから不意に、しぼんだ風船のようになってドアに寄りかかった。
腰が抜けそうに見えたため、倒れるのではないかと遥が心配になったとたん、笑はドアに肘をつき、もがくようにして身を起こした。 彼女は明らかに顔色が悪くなっていた。
遥はそこで、はっと思い出した。
笑さんは誘拐されてたんだ。 危害は加えられていないようだが、心はずいぶん折れているはずだ。
錯覚に陥って妙なことを言い出しても仕方がない。 それだけ疲れているんだから。
口をつぐみ、おびえたような表情になって見つめ返している笑に、遥は安心させようと微笑みを向けた。
「パスポート無くしたんですか? だいじょうぶ、また発行してもらえますよ。 誘拐されたんだから当り前です」
笑の口が震えた。 それから、思いもかけない言葉が飛び出した。
「ごめんなさい! 兄とハルがまちがった。 なんて言うの? えぇと、人まちがい?」
「エイミー」
分厚い玄関ドアの向こうから、呼び声がぼんやりと聞こえた。 社長の声のようだが、俊治にも似ている。 遥は緊張した。
「アイム カミン〜!」
笑がすぐ答え、ドアの横に手をかざして開いた。 指紋検証もついているのだと、遥は初めて知った。
笑は遥の肩を抱くようにして、ドアから押し入れた。 そして、階段の途中まで降りてきていた兄に走り寄ると、英語でやりとりを始めた。
あまりにも早口で、ほとんど聞き取れない。 社長はたまに合いの手を入れるだけだったが、やがて愕然とした表情になると、二人の娘を交互に見つめた。
それから彼は、手すりを伝ってできるだけ早く玄関口に下りてきた。
そして、遥の前に立つやいなや、いきなり深々と頭を下げた。
俊治はじっと、灯りのつかない二階建ての家を見つめていた。
門灯だけは自動で電気が点っているが、家は暗いままだ。 三嶋遥は、ここにはいない。
ゆっくりと門柱に寄りかかって、俊治は唇を噛みしめた。 会いたい一心で、電車を乗り継いで訪ねてきた。 しかし、こんなところでいつまでも、女性一人暮らしの家を見上げていたら、ぜったい不審者と思われるだろう。
迷った末、電話を出した。 まだあの携帯を使ってくれているだろうか。
やっとの思いでかけた電話は、通じなかった。
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