表紙

残り雪 54

社長の妹と


 エレベーターは、あっという間に最上階に到達した。
 社長宅のどっしりした扉の前で、遥はまたしばらくためらった。 名前をごまかしていたのが最大のネックになっていた。 まだ『加賀美雪』と名乗って入っていくのは気まりが悪い。 いつまでも偽名でいるわけにはいかないのだが、今更本名を名乗るのはもっと恥ずかしいし。
 悩みながら手を上げたり降ろしたりしている間に、うっかりチャイムに触ってしまった。 まるでピンポンダッシュのように、遥は逃げ出した。


 廊下の角から小さくなって覗いていると、やがて扉が開いて、女性が顔を出した。
 彼女は左右を忙しく見渡した後、いきなり上半身を大きく倒して、身を縮めていた遥と目を合わせた。
 ぎゃっ。
 遥は後ずさりした。 逃げたくても、エレベーターは廊下の向かい側にある。 背後を見たら、行き止まりだった。
 しかも、すぐその若い女性が走りながら角を曲がってきた。 彼女の顔を近くで見て、遥は悟った。
 笑さんだ!


 遥を発見すると、笑はすぐ立ち止まった。 さらさらした髪が、肩の辺りで揺れた。 テレビの写真より色白で、造作が整ってはいるが派手ではなく、むしろ清楚な感じがした。 茶色がかった瞳が、立ち往生した遥の姿を戸惑ったように眺めた。
「あの、加賀さんですか?」
 声は、顔から想像したよりも低かった。 遥は、追い詰められたネズミのような心境で、口をあけた。
「すいません、なんか勝手に仕事辞めちゃって。 それで、悪いと思って……」
「兄が心配してましたよ」
 笑がとつとつと言った。 ややなめらかさに欠ける話し方だ。 どこかの方言が混じっているのかな、と遥はぼんやり感じた。
「まだウェイジ……サラリー払ってないでしょ?」
 そのときわかった。 英語なまりだ。
「いえ、それで来たわけじゃ……」
「払います。 当然です。 来てください」
 艶やかな髪を素早く払って、笑は手を伸ばし、遥の袖をそっと握った。
 やっていることは強引だが、優しい手触りだった。 微妙な表情の変化といい、低く穏やかな声といい、笑という女性の反応は繊細で、動作に温かみが感じられた。


 引っ張られるほうが楽なので、遥は黙ってついていった。 すると、自動的に閉まった扉の前で、笑はいったん立ち止まり、遥から手を離すと、思わぬことを尋ねた。
「パスポート、持ってますか?」
 遥はきょとんとした。 誰かに最近同じことを訊かれたという気がした。
「はい」
 笑はためらい、きれいな眉をわずかに寄せた。
「今?」
「え? いえ、うちにありますけど」
「じゃ、持ってきてください。 まだ七年ぐらい使えるから」
 はっ?
 私のパスポートで何しようっていうの?
 遥は一挙に、頭が混乱した。







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