表紙

残り雪 53

互いの街へ


 そして遥は、再び目黒区に到着し、つややかな壁のビルを無言で見上げていた。
 もう夕焼けはすっかり姿を消して、空は藍色から黒へ変わりかけていた。 さきほどから冷たい風が吹き始めている。 気温と共に、遥ののぼせた頭の熱も、どんどん低下しつつあった。
 電話してから来ればよかった、と、つくづく思った。 峰高の具合が悪くなったときに備えて、俊治の電話番号は初めからピンクの携帯に入っているのだ。
 でも、かける勇気がどうしても出なかった。 相手もまったくかけてこないし。 きっと怒っているんだ。 無責任に辞めて姿をくらましたから。
 ビルに入る前に、ここから電話しようかと思った。 実際にコートのポケットから引っ張り出しかけた。
 だが、やっぱりできなかった。 ヘタレなのだ。 どうしようもない。
 迷いながら、遥はもう一度、最上階を見上げた。 そもそも、彼がここにいるかどうかさえわからない。 自宅は別にあるらしいし、仕事で会社に残っているかもしれないのだ。
 また木枯らしにあおられて、最後の熱も消えかけた。 それで、小さな賭けを思いついた。 今度あの角を曲がってくるのが女性なら帰る。 男性なら、ビルに入ってエレベーターに乗る。
 息を詰めて待っていると、夫婦らしい男女が、真中に子供を挟んで歩いてきた。
 その子が男の子だったので、遥はやぶれかぶれになって決めた。
 ビルへ入ろう!


 その時分、俊治は道に迷っていた。
 絵画好きの社長からうまく住所を聞き出したものの、歴史のある街並みはたいていどこでもそうだが、三嶋泰士の家があるはずの界隈では、道路が入り組んでいて不規則で、続いているはずの番地が飛んでいることもしばしばだった。
 百メートルほど歩いたところで遂に降参して、俊治は番地表示をたどるのを止め、自転車でやってきた子連れの若奥さんに呼びかけた。
「すみません、画家の三嶋泰士さんのお宅、ご存知ですか?」
 彼と同い年ぐらいの奥さんは、地面に足を着いて止まり、首をかしげた。 モヘアのフードつきコートにくるまった子供は、ぬいぐるみの熊そっくりの姿で、母親と俊治を代わる代わる見ていた。
「わかりますけど、こっちの方角じゃないですよ」
 やっぱり。 俊治は辺りを見回した。
「じゃ、どっちへ行けば?」
 彼女は、すぐに右の道を指差した。
「ここをまっすぐ行って、二つ目の四つ角で右に曲がって、突き当たりの家です」
 それから、俊治が予想していなかったことを付け加えた。
「でも、今はお留守みたいですよ。 三嶋さんはもう二年ぐらい前に亡くなったし、遥ちゃんはここ何日かいないみたいなんです。 昨日いっしょに買い物に行く約束してて、チャイム鳴らしたけど誰も出なかったから」


 はるか……。
 そういう名前なのか?
 俊治は急いで携帯を取り出し、若い母親に画像を見せた。
「あの、遥さんてお嬢さん、この人ですか?」
 画面を覗いてすぐ、彼女は答えた。
「はい、そうですけど」
 俊治は胸を撫で下ろすと同時に、『加賀美雪』が前より実体を持ったような気がした。







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