表紙

残り雪 47

生きていた


 大きな見出しが躍っている新聞を一部買って、ベンチに座って読んだ。
『アメリカ、カリフォルニア州フレズノ近郊で、現地時間の9月29日(木)午後に行方不明となっていた学生、砂川笑〔さがわ えみ〕さん(21歳)が、ベレンズタウン郊外にある農場で無事発見された』
 砂川笑。
 この名前だ、まちがいなく。
 砂川は珍しい苗字だし、笑という名もめったにない。 死んでなかったんだ!
 遥は目を皿のようにして、細かい字の紙面を読みふけった。


 記事によると、砂川笑はサンフランシスコの美術館へ研修に行っていて、休暇で訪れた会社社長の兄を乗せて車を運転中に事故を起こした。
 車は大破し、助手席にいた兄は意識不明。 携帯電話も壊れたため、笑は徒歩で助けを呼びに行った。
 近くの小さな町ベレンズタウンに駆け込んで、救助を要請したことまではわかっている。
 だが、その後、彼女の姿は忽然〔こつぜん〕と消えてしまった。


『砂川さんに何が起きたかは、まだ公表されていない。 事故から三ヶ月以上経ち、留守家族にも焦燥の色が濃かっただけに、無事生還の知らせは、笑さんを待ちわびていた人々に心からの『笑み』をもたらした。
 事故の際に同乗していた兄のハイマウント商事社長、砂川峰高氏(31歳)は、まだ後遺症が癒えていないため、従兄弟で専務の俊治氏(30歳)が、ただちに迎えに成田空港へ向かった』
 だから昨日の朝、ただならぬ顔で社長の部屋へ来たんだ。
 俊治が心ここにあらずといった様子だったわけが、やっとわかった。 遥の心は、ずいぶん慰められた。 とんでもない緊急事態だったから、おちおち遥に話しかける余裕はなかったのだ。


 もう一度、記事を隅から隅まで読み返した後、遥は新聞の一面だけを小さく畳んでバッグにしまい、残りを屑籠に入れてから立ち上がった。
 俊治は笑を、折り返し飛行機に乗せて、すぐ連れ帰ってきただろう。 社長が喉から手が出るほど会いたがっているはずだから。
 今ごろあのマンションは喜びで沸き返っているだろうな、と遥は思った。 自分がほんのわずかだけ泊まった笑の部屋には、本当の持ち主が帰ってきた。 社長の苦しみも消えた。 気持ちが明るくなれば、怪我の後遺症の直りも早くなるだろう。
 私は笑さんという人の影法師〔かげぼうし〕みたいなものだったな、と遥は思った。 たった三日間の影法師。
 今考えれば、不思議な三日間だった。 すでに遠い夢のように感じられる。 闇の恐怖から逃れようとしてすがりついた俊治との記憶でさえ。
 向こうにとっては、私よりずっと淡い印象しかなかっただろう。 若くてハンサムな実力派専務なんだから、どこへ行ってもちやほやされるはずだ。 一夜のベッドインなんか、すぐ忘れてしまうにちがいない。
 私の場合、そのほうがいいんだ。


 駅の階段をとぼとぼ下りていくうちに、ふと思いついた。 まだ私の携帯は美雪の地下室に転がってるんだろうか。 自分の電話にかけて、確かめてみよう。










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