表紙

残り雪 46

早く自首を


 男はギョッとした。
 彼の反応がすごくわかりやすいので、遥はこんなときでも笑い出しそうになって、あわてて口の端を手で押さえた。
「さ……殺人罪になってもいいのか?」
 信じられないという口調だった。 こうなると遥のほうにゆとりが出て、つんと顔をもたげて顎を上げた。
「関係ないでしょう? そこどいて」
 すると、驚くことに男は言われたとおり道をあけた。


 自転車に乗って少し行ったところで、遥は我慢できなくなって停車し、背後を振り向いた。
 すると、男が逆方向に歩き去っていくのが見えた。 ぼそぼそした足の運びで、しかも首筋に手をやっているところが、いかにも失敗したなぁ〜という感じだった。
 なんなの、あいつ。
 虚勢を張っていた遥の速い鼓動が、次第に落ち着いてきた。
 本当は怖かった。 静かな住宅街で、通行人は誰もいない。 脅迫をはねつけて逆切れされ、襲いかかってこられたら、今度は自分が被害者になるかもしれない。
 自首より更に恐ろしい事態になるところだった。


 あのひょろっとした男は、美雪の地下室に入ったんだ。
 会う約束かなんかしていて、来ないから訪ねていったんだろう。 そして死体を発見した……。
 小道から大通りへ出る前のところで、遥は不意に自転車を止め、地面に片足をついた。
 地下室には、あわてて逃げたために持って来忘れた物が幾つもあった。 テーブルに置き去りにしたバッグ、血のついた靴。 上の階にはコートとストールも置きっぱになってる。
 さっきの男は、そういう品を調べて、遥が犯人だと気づいたのだろう。 でもそれなら、なんで恐喝するときに持ってこなかったのか。 決定的な証拠品を見せて脅したほうが効果的なのに。
 あいつは少し、いや相当、頭が軽いんだ、と遥は思った。 だから言い負かされて、簡単に引き下がったりするんだ。
 でも、あんなやつが発見者だとすると、美雪は他の誰かに再発見されるまで、あのまま地下室に放り出されて、朽ちていくのか。
 意地悪な上に考えなしで不愉快な女だが、そこまで死者を冒涜〔ぼうとく〕するのは、良心が痛んだ。
 最後の晩餐は諦めて、このまま警察へ行くか。
 シュンと胸がしぼんだ風船のようになった。
 自転車を警察署の駐車場にいつまでも置くことになってはいけない。 遥は家まで引き返して自転車を置き、バス停まで重い足取りで歩き出した。


 家の近所の交番へ行くのは嫌だった。 仕事先の近くも困る。 電車に乗って、気の向いた駅で降りて自首しようと決めた。
 荒川沖の駅でその気になって、電車を降りた。 ホームをうつむき加減で歩いていると、売店の新聞の見出しがふと注意を引いた。
『行方不明の日本人女性、発見』









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