表紙

残り雪 44

不審者現る


 先走った想像をしたおかげで、食欲がなくなった。
 美雪はまず、小さなケトルで湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲んだ。 とりあえず体が温まって、ほっとした気分になれた。
 それから着替えを出し、風呂場に行った。 祖父が作らせた愛着ある日本古来からの温泉風で、浴槽はつやつやした石でできている。 軽くバスルームなんて言いたくない、自慢の風呂場だった。
 ゆっくりつかってから暖房を入れた茶の間に戻った。 そして、ドライヤーを使いながら備え付けの電話をチェックした。
 留守電に幾つかメッセージが入っていた。 コミュニティ雑誌の編集長が高い声でしゃべっているのが聞こえてきたとき、美雪は思わず涙ぐんでしまった。
 ああ、この声……! これが私の日常だったんだ。
 当たり前と思っていた毎日の暮らしが、今では宝石のように貴重に思えた。
「遥〔はるか〕さん? ケータイどうしたの? 何度かけても通じないからさぁ、こっちにかけたよ。
 そろそろ二月分の準備しなくちゃいけないんで、オフィスへ来てくれる? 来週中ならいつでもいいから、都合のいい日教えて。 電話待ってるよ」
 来週か。
 目をしばたたいて、美雪、ではない三嶋遥〔みしま はるか〕は柱にかけたカレンダーを見上げた。 今日は金曜日。 来週までには、まだ土曜と日曜という週末二日間の余裕がある。
 疲れた、と遥は思った。
 今日はしばらくぶりに、この家でゆっくり寝よう。 そして土曜日に身辺整理をして、日曜に警察へ行こう。
 公務員といっても、警察に週末休みはない。 ただマスコミは、土日には取材をあまりしないので、騒ぎになりにくいと聞いたことがある。
 ほんとだといいな、と、つくづく思った。




 何も食べずに七時に寝た。
 熟睡して、まったく夢も見ず、翌朝の八時にようやく目が覚めた。
 十三時間も眠り続けたことになる。
 自首してけじめをつけると決めたからか、亡霊のようなものは夢にもうつつにもまったく現われなかった。 起きたときは寝過ぎで体の節々が痛かったものの、気分は爽快だった。


 買いだめておいたカップのシーフードラーメンを食べた後、午前中はずっと家の片付けに追われた。
 普段から綺麗好きのほうだから、そんなに大変ではなかった。 それでも、古い下着を細かく切って捨てたり、読まれたくない手紙を焼いたりと、することはいくらでもあった。
 午後になると、ふと手を休めて考えた。
 夕方は最後の晩餐と行こう。 と言っても、高級レストランで一人で食べるのは、逆にわびしい。 だからといって、普通に暮らしている友達を呼び出して、楽しい会話をするのはもっと辛い。
 『加賀美雪』に何が起きたか、打ち明けられるほどの親友はいなかった。
 だから、好物のタンドリーチキンとかスパサラダとか、自分でご馳走と思えるものをみんな買ってくることにした。 そして、父母の仏前に供えて、一緒に食べるつもりだった。
 小ぶりのトートバッグに、財布と俊治に貰ったピンクの携帯電話、ハンカチと化粧直しの道具だけ入れて、遥は玄関に鍵をかけ、ガレージの隅に置いてある自転車のほうへ向かった。
 キーを差し込んでハンドルを握り、門から出ようとしたそのとき、ニットのロングジャケットを着た男が不意に立ちふさがった。
 目が合うと、男はキャスケット帽の鍔〔つば〕を持ち上げて、眼鏡の下からニヤッと笑った。








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