表紙

残り雪 43

帰ってきて


 一階までエレベーターで降りて初めて、そこが名店街になっているのに気づいた。 駅の地下商店街のように整然と店が並んでいて、表示を見ると高級ブティックやレストランが軒を並べているようだった。 上の階の優雅な住人たちは、特別注文でここからご馳走を運んでもらっているのだ。
 たぶん服や靴なんかも手に入るのだろう。 ふと思いついて、画材店を探してみたが、店名表示板にはそれらしい名前はなかった。


 正面の出入り口はオートドアになっていた。 三日ぶりに外気の中へ踏み出すと、オレンジがかった午後の日と冷たい風が顔に当たって、今は冬の最中だと実感した。
 社長の住まいは空調で、ずっと二十二度を保っていた。 たしかに快適だけれど、その心地よさは人工的で、劇場や映画館を思わせるものだった。
 現実離れした三日間。
 美雪はゆっくり息を吸い込み、目についたバス停留所目がけて歩き出した。
 看板の駅名を見て、ようやくここがどこかわかった。 目黒区の一画なのだ。 美雪は山手線から常磐線に乗り換えて、取手市の自宅まで帰ることにした。


 駅を降りて、歩いて家路につく途中で、背筋をぞわぞわさせる恐怖が襲ってきた。
 家の前に警察が張り込んでいたら、どうしよう。 ドアを開こうとしたとたんに、警官に腕をつかまれたら。
 いっそ戻る前に自首してしまおうか、という気になりかけた。 だが、やはり思いとどまった。 警察署に拘置された後、自宅を捜索されるだろう。 まだ踏み込まれていないなら、きちんと片付けておかないと恥ずかしい。
 家の一つ手前の角を曲がるのに、すべての勇気をかき集めなければならなかった。 文字通り、脚が震えた。
 すでに辺りは薄暮で、灯りのない二階建ての家は灰色っぽく見えた。 道筋の街灯や玄関先の常夜灯はまだつかない。 半端な時間帯の中で、周囲の見慣れた風景が妙に非現実的に感じられた。
 玄関ドアに近づいて鍵を開けるまで、美雪の緊張は続いた。 だから、無事に鍵を解除してドアから中にはいったとたんに、膝が崩れて上がりかまちに崩れこんでしまった。


 中は外より更に薄暗かった。 一分ほどぼんやり座っていた後で、美雪はなんとか立ち上がってポストの中身を出しに行った。
 父が亡くなってすぐ、新聞は止めた。 だから入っていたのはチラシ数枚と電気の領収書、知り合いの画家の個展案内だけだった。
 他には何もなかった。
 まだバレていないんだ!──執行猶予を受けたように胸を撫で下ろし、美雪は這うように玄関の中に戻った。
 本物の『美雪』はまだ発見されていないんだ。
 真冬でも、三日経てば死体は腐ってくるものだろうか。
 生意気な美しさを持つ『美雪』の顔が紫色になり、しぼんでいくさまを想像して、美雪は吐きそうになった。








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