表紙

残り雪 42

去る朝には


 早く朝食を済ませておいたのは、美雪の作戦勝ちだった。 その日の峰高は、九時になっても呼び出しをかけてこなかったのだ。
 終いに心配になって、美雪のほうから彼の部屋に行った。 ドアに耳をつけると、中で盛んに歩き回っている音がする。 いつもゆったり歩くのに、今はせかせかと速く、つまずいてガタンと大きな音を響かせたりしていた。
 まるで別人のようだ。 美雪は少し怖くなり、急いでドアをノックした。
 足音は、ぴたりと止まった。
「加賀さん?」
「そうです」
 足音は近づいてこず、代わりにせっぱ詰まったような声が聞こえた。
「ちょっと考え事してて。 何も食えそうにないんだ。 悪いけど、そっとしといてくれる?」
「ご気分は?」
「大丈夫、元気だよ。 具合が悪くなったら、即攻で呼ぶから」
「わかりました。 あの、お薬は?」
「後で飲むよ。 悪いね、わがまま言って」
「いえ、とんでもないです」
 美雪は落ち着かない気持ちで、部屋に引き返した。
 何かが起きている。 社長と俊治さんが両方とも我を忘れるような事態が。
 来たばかりの付き添い人でしかない自分に、事情がわかるわけがないし、彼らも話さない。 しょせん、ただの他人なんだから。


 午後の一時半過ぎに、電器屋が若い店員と共に大きな段ボール箱を担いでやってきた。
 彼らが古いテレビを取り外し、新しいのを手際よく取り付けるのを、美雪は留守の責任者として見守った。 LEDのバックライト付きとかチューナーが三つ内蔵されているとか、機能や使い方を詳しく説明されたが、ほとんど上の空で相槌だけ打った。
 明日にはここにいないのだから、テレビの使用法がわかっても意味がない。


 二人を円満に送り出した後、四時まで社長の呼び出しを待った。
 その間に、少しずつ荷物をまとめた。 といっても、財布と、一度着た衣類と、封を切った化粧品、それに絵の道具ぐらいしかなかったが。
 高価な絵の具の箱を、美雪はそっと指でさすった。 置いていこうかとも思ったが、どうしてもできなかった。 俊治がわざわざ集めてくれた贈り物なのだから。
 衣類の入っていた紙袋ひとつに、すべて入ってしまった。 それをベッドの横に置くと、美雪はもう一度、社長の部屋の前に行った。
 控えめなノックに応じる声はなかった。 おそらく社長は、歩き回って疲れ果て、寝てしまったのだろう。
 美雪は自室に引き返すと、デスクに座って置手紙を書いた。
 短い書置きなのに、ずいぶん時間がかかった。 ようやくまとまって、引き出しにあった封筒に入れ、峰高の部屋の閉じたドアの下に差し込んだ。
 それから袋を持って階段を下り、ここに来るとき履いてきたブーツに替えて、静かに玄関を出ていった。








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