表紙

残り雪 41

突然の出発


 廊下に出てすぐ、虚しさが襲ってきた。
 何か緊急事態が起きたのはわかる。 だが、部屋に入ってきた俊治は、峰高だけを見ていた。 美雪と目を合わせようともしなかった。 それどころか、いるのさえろくに意識していない様子だった。
 やっぱり昨夜のことは、ちょっとした気の迷いだったんだ。
 夜遅く疲れて帰ってきて、たまたま目の前に若い女が倒れていた。 雰囲気に負けて抱きたくなった。 それだけなんだ。
 美雪は強く頭を振り、できるだけしっかりした足取りで階段を下りた。 上の二人は、しばらく話を続けそうだ。 その間に軽く朝食を取っておこうと思った。


 虚勢を張っていられたのは、ガーリックトーストとハムサラダ、クルトン入りスープという朝用定食を申し込んで、ボタンを押すまでだった。
 小さなエレベーターが上がってくるまで、美雪は唇を噛んでなんとか涙をこらえていた。 だが、椅子に座ってぽつんと一人で食事を始めたとき、まったく不意に目から涙があふれて、テーブルに点々と模様を作った。
 まずい!
 美雪は飛ぶように立ち上がり、水道の水で目の周りを軽く叩いて冷やした。 少しぐらいメイクが落ちるかもしれないが、もう構うもんかと思った。 それより、目を泣き腫らすほうが怖かった。


 食べ終わって食器をエレベーターに片付け、呼び出しの子機をテーブルに載せてからソファーに座って、カナダの風景を美しく撮った写真集を膝に置いた。
 そのとき、ポケットの携帯が鳴った。 思わず美雪は腰を浮かせた。 俊治さんからだ!
 取り出すとき手をすべらせかけたが、画面には連絡を頼んでおいた電器屋の店主の名前が出ていた。 美雪はがっかりして、またソファーに座りこんだ。


 電話を切ってポケットに戻してから数分後、ドアが開いた。
 誰だかは、見ないでもわかった。 峰高はめったに下へ降りてこないし、入ってくると必ず声をかける。 三秒以上黙っているのは、俊治だけだった。
 美雪は雑誌を脇へ置いて立った。 彼の顔を見るのは勇気が要った。
 俊治もまっすぐ見返してきた。 平静だが、目の奥に不安定な火花が散っているように思えたのは、気のせいだろうか。
「急用ができてアメリカに行ってきます。 アメリカのカリフォルニアに」
 その言い方が、ちょっと引っかかった。 アメリカ以外にカリフォルニアがあるんだろうか。
「はい」
 美雪がおとなしく答えると、俊治は脇に抱えていたコートを羽織り出した。 顔をそむけて裾を整えながら、彼はいくらか早口になった。
「いつ帰れるか予定が立たないんで、留守の間、社長をよろしく」
「はい」
 この返事は嘘だった。 気が咎めて、美雪の声はくぐもった。
「あの」
 呼びかけられて、マフラーをかけようとした俊治の手が止まった。
 美雪はできるだけ普通にしゃべろうとしたが、どうしても固い口調になった。
「今日の午後、電器屋さんがテレビを持ってくるそうです」
「ああ……」
 そんな話を持ち出されるとは思わなかったらしい。 俊治の無表情にほころびが出た。 小さく唇をなめたのは、初めて見せる緊張の証だった。
「社長がカード払いにすると思う」
「はい、そう言っておきます」
 軽く頷いて、俊治はドアのほうに行きかけた。
 だが途中で足を止め、体をよじるようにして振り返って、言った。
「帰ってから話があるから」
 単調で、ひどく事務的に聞こえた。
 その言葉に、美雪は返事しなかった。








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