表紙

残り雪 38

一夜だけの


 触れたか触れないか、判然としないほどの口づけだった。
 だが、それは燃えるような熱さを残して、美雪の唇を灼いた。 温かい俊治の顔が離れていくと、無意識に美雪も伸び上がって、彼の肩にたどり着いた。
 二人は黙って抱き合っていた。 わずかに髭〔ひげ〕が伸びかけている頬に、美雪はそっと顔をこすりつけた。 猫になった気がした。 闇夜に拾ってくれた人間へ精一杯の感謝をこめて甘えている、痩せっぽっちの小さな猫に。
 やがて、美雪の背中に回った腕に力が篭もった。 脇に手を入れて強く支えて、俊治は彼女を立ち上がらせた。
 それから腕を抜いたが、完全にではなかった。 肘まで手をすべらせて、柔らかく握った。
 彼に引かれるまま、美雪は歩き出した。 部屋に連れて行ってくれるかと思ったが、俊治はドアの前を通り抜け、次の部屋の前で止まった。
 それは、彼自身の泊まっている部屋だった。


 美雪を振り向いた俊治の眼は、きらきらしていた。 顔には拭い去ったように表情がない。 きらめく眼だけにすべての生命力が集まっているように見えた。
 あかぬけた美形の峰高に比べれば、目立たない顔立ちといえるかもしれない。 だが彼には、峰高にない力強さがあった。 そっけないほど淡白な感情表現も、美雪にとっては独特の魅力の一つだった。
 じっと美雪を見すえたまま、俊治はかすかなカチッという音をさせてドアを開いた。 美雪は魅入られたように、自ら敷居をまたいで、中へと踏み込んだ。


 ドアが閉まった。
 少し待っても灯りはつかず、窓からわずかに射し込む月光と都会の雑踏の反射だけが、家具をぼんやりと浮き立たせていた。
 目鼻立ちもわからぬ闇の中で、俊治は美雪を引き寄せ、後頭部に手を当てて激しく唇を奪った。 今度は強く容赦のないキスだった。
 幾度となく繰り返すうちに、キスは深くなった。 二人はもつれた足取りで、ワルツを踊るように回りながら寝室に向かい、ベッドに身を投げ出した。


 嵐に揉まれているようなものだった。 いきなり怒涛の中に放り投げられて、泳ぎは初めてだと告白しても通じない。 美雪は観念して力を抜き、彼の動きにまかせて、懸命にしがみついていた。
 強烈だったが、怖さはなかった。 体を絡みあわせていて、ただわくわくした。 激しい鼓動、吐息、熱くなっていく肌、そのすべてに心を捕らわれて、意識が飛び飛びになった。


 言葉に尽くせないひとときが過ぎた。
 美雪は、うつ伏せに横たわる俊治の二の腕に額をつけて、しばらくまどろんだ。 後悔の入り込む隙は、いっさいなかった。 未来がないのに、どうしてこんな素敵な夜を悔やむ必要があるのか。
 私はこの人に本気なのかもしれない。
 突然そう思ったが、すぐ頭の外に追いやった。 心という舟が転覆しそうで、しがみついているだけなんだ。 恋じゃない。 たった二日半でそんなものは生まれない。
 天井で、そして廊下で、疲れきった意識を直撃したあの影が、記憶の中でうごめいた。 良心が見せる幻なら、どこへ逃げてもついてくるだろう。
 もう限界なのだ。 この一風変わった天国みたいな隠れ家から、木枯らしの吹く現実の世界に出て行く時が来たのだと悟った。












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