表紙

残り雪 37

寄り添って


 それは囁き声だった。 優しく、穏やかで、胸が痛くなるほど思いやりに満ちていた。
「ごめん……なさい……」
 美雪は喘〔あえ〕いだ。
「あんなこと……する気なかった……。 あの人があんなことしようとするなんて、思わなかった……」
「思わず、やっちゃった?」
 腕は美雪を柔らかく包み、低い囁きは愛撫のように耳にまつわった。 美雪は固く目を閉じたまま、子供のように何度もうなずいた。
「……わざとじゃない。 ほんとに、ほんとに絶対……。 でも逃げて悪かったと思う。 警察に行って、ぜんぶ話す……」
 指が額を撫でて、髪を顔から払ってくれた。 歯の音が合わないほどの寒けで震えていた美雪の体に、少しずつ熱が戻ってきた。
 同時に、渦巻いていた意識の闇が遠ざかった。 美雪はようやく目を開いて、自分を抱き寄せているものの正体を見極めた。
 それは、俊治だった。 コートを着たままで、首からマフラーが垂れ下がっている。 仕事から帰宅してすぐ、倒れている美雪を見つけたらしかった。
 不思議な感動にひたって、美雪はすぐ上に被さるようにある俊治の顔を見つめた。 彼は美雪を雇い、ここにいわば避難させてくれた人だが、これまで身近ではなかった。 二人の間には常に透明な仕切りがあった。 事務的な上司と部下としての、見えないがはっきりした境界線が。
 俊治はきりっとしていて、峰高のように無防備な姿を見せたことは一度もない。 その人が、美雪をこんなふうに膝に抱いて、親身に慰めてくれるなんて。
 目が合っても、彼はそらさなかった。 ただ黙って、もう一度髪を撫でてくれた。 警察という言葉を確かに聞いたはずなのに、突き放すどころか、普段では考えられない優しい態度だった。


 不意に、美雪の胸の底から何かがせり上がってきた。 視野が、溺れたときのようにかすんだ。
 涙を拭くことは考えつかなかった。 美雪は疲れすぎていた。 ただ心のままに、感謝を込めて、髪に触れている俊治の手を取り、唇をつけた。
 体の下で、彼の膝が小さく跳ね上がった。 きっと驚いたのだろう。 美雪は彼に動いてほしくなかった。 もう少し、あと一分でもいいから、護られているという感触を味わっていたかった。
 また目を閉じたとき、キスした手のひらが頬にそって動いた。 すぐに、もう片方の手が添えられて、美雪の顔を挟んだ。
 それから唇が重なった。 まるで花びらのように軽く、ふんわりと。












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