表紙

残り雪 35

奇妙な物音


 ああ、少しだけそうした時期があった。
 美雪は心の中から思い出をたぐり寄せて、逃すまいとするように短く目をつぶった。
「ええ、四ヶ月ほど」
「アメリカ?」
 低い声で尋ねられた。 エビチリのエビを皿の縁に並べながら。
 ハワイもアメリカのうちだ。 美雪は頷いた。
「そうです」
 とたんに峰高は、ずらっと並べたピンク色のエビを、次々と口に放り込み始めた。 早く食べないと、手品のように消えてしまうかのような勢いで。


 ブランチが終わったのは、午後三時過ぎだった。
 中華料理を残さず食べた峰高は、その時点で晩飯は要らないし、間合いが短くなりすぎるから薬も飲まないと美雪に告げていた。


 夜の七時になって、美雪の新しい携帯が鳴った。 まさかかかってくるとは予想もせず、美雪は自分の部屋の椅子から飛び上がりそうになった。
 かけてきたのは、その電話を買った人、つまり俊治だった。 今夜は仕事で出かけるから帰りは朝方になると伝えるために。
 了解して電話を切ると、美雪はシーンとした部屋を見回した。
 峰高は自分の部屋で好きなことをしている。 俊治は一晩中帰ってこない。 思いついて携帯で友達の電話番号を調べ、三人分見つけたが、いざかけようとして、ためらいが出た。
 何を話す? 知らん顔をして、ふつうに世間話ができるのか?
 それでも寂しくて、一人にかけた。 しかし、留守番電話になっているのに気づいて、黙って切った。


 その後は、ハワイの日々をいろいろ思い出して過ごした。 父が仕事で行き、高校を卒業したばかりの美雪を呼び寄せたときの記憶を。
 実に楽しい四ヶ月だった。 判で押したような学生生活から解放され、自分の時間を好きに使える日々。 毎日のように海へ行った。 そして、小麦色を通り越して茶色に焼けた。


 ベッドにもぐりこんでからも、思い出はしばらく脳裏を巡った。 そして、その状態のまま眠りに落ち、続きの夢を見た。
 ビーチチェアーに横たわって、ビルの合間から砂浜に差し込んでくるキラキラした光を顔に浴びていると、近くのパラソルが不意に倒れた。 ガツンという無粋な音が、懐かしい風景を粉々にした。
 美雪はもそもそと体を動かし、掛け布団の下で薄目を開けた。
 たぶん、真夜中だ。 天井にゆらゆらしていた不気味な影が、いきなり記憶によみがえってきた。
 布団から顔を出すことができず、体を固くしていると、また音が聞こえた。 今度はさっきより高い音で、キーンという嫌な余韻が長く残った。
 なんだろう。 下の階から響いてくるらしい。
 まさかと思うが、侵入者かもしれない。
 すぐにパッチリと目が開いた。 これは夢じゃない。 この階にいるのは、社長と私だけだ。 彼は怪我人だから、危ない目に遭わせるわけにはいかない。 俊治さんがいない今、社長を守るのは自分だけだ。
 うまく動かない足を、懸命に床に下ろした。 そのとき、どうしても天井をちらっと見てしまった。
 影はまったく出ていない。
 そのはずだ。 夢の中じゃないんだから。
 美雪はホッとしたのと不安とが入り混じった複雑な気持ちで、室内靴を履き、忍び足でドアまで行った。
 木の扉に耳を当てて、様子をうかがった。 三度目の音は聞こえない。 こんなときに間が悪く、昔見たテレビドラマを思い出した。 同じドアの両側から、被害者と悪人が聞き耳をたてているという場面を。












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