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残り雪 32
現実の悪夢
奇妙な真空状態は、俊治が小さく胴震いのような動作をしたことで、すぐ消えた。
彼の顔が横から美雪を眺め、自然な微笑に変わった。
「だから言ったでしょう? ぜんぶ社長のため。 加賀さん役に立ってるじゃない。 一日で彼をあんなに明るくしたんだから」
「そうですか?」
美雪はまだ半信半疑だった。
「そうですって。 あの双六、十日ぐらい前に買ってきたけど、見向きもしなかったんだ。 自分から出してきて、やる気になったなんて、驚きだよ」
そういえば、今日は妹さんと間違われなかった。
美雪は不思議な気持ちになった。 こんなに不安定で打ちのめされている自分が、人の心を明るくするなんて。 もしかしたら、不幸せな者同士だから、通じ合えるのだろうか。
「でも今朝は、ミルクしか飲んでもらえなかったんです」
「へえ」
俊治は笑顔を消したが、それほど心配そうではなかった。
「寿司も食べなかったら考えよう。 たぶん大丈夫だと思うよ」
いつものように半時間足らずで届いたトロ入り握り寿司は、どう見ても五人前ぐらいあった。
それを男二人は猛然と食べた。 日本酒と煎茶をチャンポンに飲みつつ、どんどん胃袋に収めていく。 ただ、桶の端に美雪用コーナーを作って、そこには絶対に手を出さなかった。
最後に美雪が水のボトルと薬を取りに行くときには、桶は猫がなめたようにピカピカで、ガリさえすべて姿を消していた。
なごんではいけないのかもしれない。
だがこの一日半で、美雪は二人の青年が好きになっていた。 どちらもさっぱりしていて、社会的地位があるのに偉ぶらない。 親切だが、押し付けがましくない。
きっと彼らが経営する会社も、いい雰囲気なんだろうな、と美雪は思った。 どんな職種の企業なんだろう。
あとで携帯で調べてみよう、と考えた。
おやすみの挨拶をした後、ほかほかした気分で部屋に帰った。 酒がほどよく回って、心が軽い。 小さくハミングしながらピンクの携帯電話を引き出しから取った。
使うのは初めてだった。 いつも短縮でかけていたせいで、友達の番号がわからない。 自宅のはもちろん覚えていたが、自分しか住んでいないから意味がないのだ。
仕事先にはかけられなかった。 今は逃亡中なんだから。 まだ捜査は始まっていないとは思うが。
行方不明になってから、何日ぐらいで回りが心配し出すだろう。 三日? それとも一週間ぐらい?
急に酔いが醒めてしまった。 やみくもに逃げ出す前に、もうちょっと何とかできなかったか? 事件が起きたその日に行方知れずになったら、警察は真っ先に疑うはずだ。
カッとなっていて、逃げることしか考えつかなかった。 ほんとバカだ。
バカといえば、靴を残してきちゃった。 血がついたから、『美雪』の靴と取り替えた。 きっと指紋がベタベタだ。
美雪は電話を離し、デスクの上に突っぷした。
これまでは気が転倒していた。 頭にかすみがかかったようになっていて、事実から逃げていた。
それが丸一日経って、ようやく自分が戻ってきた。 置かれている立場と、抜き差しならない状況が、判断できるようになった。
逃げ延びるのは不可能だろう。 今ここにいるのは、まったくの偶然で、一種の奇跡だ。 奇跡が向こうから美雪を誘って、暖かい隠れ家を提供してくれたんだ……。
あと七日、と美雪は決めた。
一週間、社長をできるだけ元気にして、恩返しをする。
それから、警察に出頭しよう。 社長と俊治さんに迷惑をかける前に。
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