表紙

残り雪 22

描きたくて


「退屈?」
 俊治は美雪のほうを見るために、少しだけ首を傾けて尋ねた。 立てば背は高いほうだが、座ったままそんな姿勢を取ると、育ちすぎた小学生っぽく見える。 どちらかというと童顔なのだと、美雪は初めて気がついた。
「テレビが直るまで、なんか気晴らしが要るでしょう? 欲しいものがあったら言って。 明日買ってくるから」
 美雪は戸惑った。 男性に、それも若い男の人に買い物を頼んだことなんか、一度もない。
 一瞬考えた後、これなら簡単に買えるという物を思いついた。
「あの、画用紙と水性のカラーペンがあるといいんですけど。 百均で売ってるような」
 俊治はいぶかしげに目を細めた。
「百均?」
 もしかするとこの人、百円均一の店に行ったことがないのか?
 美雪は急いで説明した。
「いろんな色が入った水性ペンのセット、売ってるんですよ。 たぶん十二色とかで」
「そう? ちゃんとした画材店のじゃなくていいの?」
 それだと好みが出てしまう。 いつも使っている色鉛筆や特殊なゴム消し、定番の紙が恋しくなる。
「いえ、ちょっと暇つぶしに描くだけですから、安物で充分です」
「絵が好きなんだ?」
「ええ……」
 それで食べていたとは言えなかった。 本物の加賀美雪は貿易会社の社員だ。
 俊治は身軽に立ち上がってカウンターに行き、置いてあるメモ用紙に書きとめた。
「明日探してみるね。 他には?」
 美雪は恐縮した。
「いえ、もうそれだけで」


 俊治と別れて二階に上った後、美雪は白いテーブルの前に座り、引出しから紙とシャープペンシルを出した。
 それから、できるだけ大きくカブトムシを描いた。 記憶の中で一番最初にスケッチしたのは、ブナの木にとまっていた黒光りするオスのカブトムシだった。 子供の目には巨大に見えたその虫は、足を描き終わる前にいきなり羽を広げ、低音を響かせながら夕日めがけて飛んでいった。 実に堂々とした、辺りはばからぬ態度だった。
 それ以来、絵を描くときは必ず、カブトムシから始めることにしている。 一種の縁起担ぎで、習慣になっていた。
 二股に分かれたツノの線を書きながら、美雪は心の中で絵に話しかけた。
──カブくん、二日ぶりだね。 今日は怖かったよ〜。 心臓ばくばくで、どうしたらいいかわからなくて。
 こんな金持ちの家に逃げ込んじゃった。 いつまでいられるかわからないけど、考える時間はできた。 社長も俊治さんも、いい人みたいだし──
 カブトムシを仕上げて紙をめくると、美雪のシャーペンは無意識のうちに、形のいい男の顔の輪郭線を取りはじめていた。













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