表紙

残り雪 19

思い出と絵


 峰高は、何の言葉も発しなかった。
 関心が無いか、また意識が薄らいだか。
 どちらだろう、と美雪が顔を上げると、思いがけなく彼がこっちを見ていた。


 ビロードのような眼に思いやりが光っているのに気づいて、美雪は驚いた。 その優しい光は、視線が合ったとたんに峰高が顔を動かしたため、見えなくなってしまったが、わずかな一瞬にはっきり感じ取れた。
 集中できたのはそこまでだったらしい。 峰高は低く呻いてソファーに崩れ、固く瞼を閉じた。
「なんか、吐きそう」
 美雪は慌てて腰を浮かせた。 せっかく薬を飲んだのに、出してしまっては元も子もないじゃないか。
 もったいないなぁと庶民的なことを考えながら、キッチンに飛んでいって棚にあったボウルを手に取り、居間に駆け戻った。
 すると、峰高は気持ちよさそうにスースー寝息を立てていた。


 無理に起こすつもりはなかった。
 美雪はそっと広いソファーの端に座り、一分ほど峰高の様子を見ていた。 また気持ち悪くなって起き出したら、すぐボウルを差し出す用意をして。
 だが、峰高は安らかに寝入っていた。 右腕を頭の下に回し、脚をソファーの側面に流したまま。 長い睫毛が、頬に扇のような影を落としていた。
 音がしないようにボウルをテーブルに置いてから更に一分、美雪は峰高を見守っていた。
 何の動きもないのを確かめた後、彼女はそっと立ち上がり、コート掛けのポールにかかっていた藍色のダッフルコートを取って、寝ている青年の上に広げ、静かに立ち去った。


 自分用の部屋に戻ると、美雪は居間の壁一杯に描かれた絵を、改めてじっくり鑑賞した。
 父が画家だったので、美雪も小さいときから大小さまざまなキャンバスや絵の具のこびりついたパレットに囲まれて育った。 父の風景画が何より好きだった。
 油絵や水彩画では太刀打ちできないと思ったから、イラストレーターを目指した。 在学中に少しずつ売れ出し、なんとか食べていけるところまで来ていた。
 それがすべて、がらがらと崩れたのだ。
 あの容赦ない女のせいで。


 この人も父のように才能を持ってる──笑の残した壁絵を、美雪はほとんど愛情をこめて見渡した。
 他の絵もあるのだろうか。 追悼の個展を開けたら、兄としての社長の苦しみも、少しは癒せるのではないだろうか。










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