表紙

残り雪 4

車に乗ると


 改めて雇用契約書にサインさせてから、男は書類をまとめてバッグに戻し、また向き直って、真剣な眼差しになった。
「実は、一刻でも早いほうがいいんだ。 これからすぐ働いてもらえると有難いんだが」
「今?」
 普通なら驚き、ひるむだろう。 だが、『美雪』にとっては渡りに船だった。 思わず、すがりつくような声になった。


 男はまた、二秒ほどの間、美雪を観察していた。 明るい目だ。 茶色の虹彩に黒の細い筋が走って、しっかりとした光を放っていた。
 美雪も男から視線を外さなかった。 彼は、細くも太くもない。 さっき立った姿を見ると、普通より背が高い感じだった。
 やがて、男はきっぱりした口調で言った。
「そう、今」
 命令し慣れている人間の言い方だった。


 男が軽やかに立ち上がるのにつられて、美雪も腰を上げた。 むくんだ土踏まずが、呻きたくなるほど痛かった。
 彼は一足先に、女主人がコップを並べているカウンターに行って、礼を述べながら金を払っていた。
「ありがとう。 助かった」
「こちらこそ。 あら、いいの? こんなに貰って」
「貸切りにしたんだから、当然」
 可愛らしい女主人は笑顔になって、男の腕をポンと叩いた。
「うまく見つかってよかったわね」
 男はカウンターに手をかけたままで振り返り、テーブルに寄りかかってようやく歩き出した美雪を眺めた。
「駄目かと思ったけど、最後の一人でなんとか。 もし後から来る人がいたら、これを渡してくれる? 来なかったら君が取っといて」
 そう言って男が取り出したのは、応募者達の帰り際に渡していた封筒だった。 たぶんいくらかの金が入っているのだろう。
 後からカウンターに行った美雪も、財布を開けて千円札を出して支払おうとした。 すると、女主人は目を糸のようにしてやさしい表情になり、手を振った。
「いいんですよ。 みんな貸切り料金に入ってますから。 ありがとうございました」


 男について外に出た時分には、だいぶ足の痛みは引いて、歩きやすくなっていた。
 足元に注意しながら段を降りていると、ペースを揃えてゆっくり下っていた男が、穏やかな声で言った。
「あそこの駐車場に車を置いてあるんだ。 勤め先まで送っていくよ」
 言外に、送り狼じゃないから大丈夫だ、という含みがあった。 だが、美雪はなぜか、その心配はまったくしていなかった。 おびえている女には本能的にわかることがある。 相手が危険か、そうでないか。


 男の上等な服装から想像した通り、車も上品なダークブルーのセダンだった。 ナンバーは多摩だ。 郊外に使い心地のいい住宅を構え、綺麗な奥さんと一人か二人の子供と暮らす、絵に描いたようなエリートなのだろう。
 促されて助手席に座るまで、美雪はそんなことを想像していた。
 ところが、彼女がシートベルトをはめようとしていると、男は座席にもたれ、左手の薬指にはめた結婚指輪を、さっさと抜き取ってポケットに入れた。


 あれ?
 美雪の視線が、指輪の動きにつれて上下した。
 男の口元が、可笑しそうに軽く引きつれた。
「若い女性だけ面接するんで、既婚者と思われたほうが安心してもらえるかなと思って」










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