表紙

残り雪 3

開き直って


 ただあっけに取られた。
 こいつは、いや、カフェの女主人も平然と聞いているから、こいつらは、本気でこういうことを申し出ているらしい。
「……外出できない仕事って、何です?」
「付き添い」
 相手は即答した。 まったく口ごもることはなく、視線も外さなかった。
「誰の?」
 男は眉を上げた。
「それは、引き受けてもらってから話す」


 すぐ席を蹴って出ていくべきだと思った。 だが、考えをまとめようとして自分の手を見たとき、強く握りすぎて月うさぎの持つ杵〔きね〕のような形になった財布が目に飛び込んできた。
 その瞬間、恐るべきことに気づいた。
 カードが使えない……
 そうだ、カードを使ったら即、居場所がばれてしまう。 現金なんて一万円足らずしか持っていないはずだ。


 新たに襲ってきた恐怖で、頭の芯がしびれた。 どこかの店に飛び込みで働くのはやぶさかでないが、身分証明のない人間を雇ってくれる場所は限られている。
 定まらない目を上げると、相手の男はまだじっと見つめていた。 辛抱強く待っている。 不思議で、わけのわからない仕事を押し付けるために。
 そう。 仕事は仕事じゃないか。
 不意に思った。
 怪しくないと言ったって、誰も信用しっこない。 そのぐらいめちゃくちゃ怪しい話だが、足だけでなく気持ちも疲れきった今、自分がやけっぱちになっているのがわかった。
「やることはあるんですよね?」
 唐突に訊いた自分の声が、遠くに聞こえた。


 男は小首をかしげた。
「やること?」
「食事作ったり、床掃除したり。 テーブル拭いたりゴミ出しとか」
「ああ、あると思う」
 ハウスキーパーなんだ。 きっとそうに違いない。
 自分をごまかしているのがわかっていて、それでもどこかほっとした。
「そういうことなら、やります」
 初めて、男の顔に小さな驚きが走った。 ほんの一瞬だったが、確かに表情が動いた。
「ガンガン働きたい?」
 ちょっとからかうような響きがあったが、無視した。
「はい。 実体のない仕事は嫌なんで」
「実体か。 思いがけない言葉使うな」
 後半は独り言のように呟くと、男はいくらか前かがみだった背をスッと伸ばした。 気持ちが軽くなったようだった。
「じゃ、話はまとまったと思っていいんだね。 それじゃ、えーと」
 男は書類入れから新たに一枚、白紙を取り出して、前に置いた。
「ここに名前と住所を書いてください」


 そうだよね。
 もちろんそうなる。
 書けるはずがないなんて、相手にわかるわけがない。
 だから一つ息をついて、男の差し出す立派なボールペンを掴み、『彼女』の名前と住所を書いた。
 手が震えず、大きく書けたのが自分でも意外だった。 いざとなるとクソ度胸が据わるのかもしれない。
 紙の向きを換えて渡すと、男は鋭い眼でしっかり点検し、声を出して読んだ。
「加賀美雪〔かが みゆき〕さん。 それとも、かがみ ゆきさんかな?」
「加賀が苗字です」
 これでどこまでごまかせるだろう。 行けるところまで行くしかない。
 もう後には引けなかった。







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