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夏は謎  -124- 準備万端




 八月半ばに、翼は両親を伴って敏美の実家へ赴き、正式に結納を交わした。
 もてなしが好きな母の絹世が、張り切ってデリバリー最大の寿司を二桶も注文し、ビールに清酒に清涼飲料までズラリと並べて歓待した。
 両家とも堅いサラリーマン家庭なので、親たちはすぐ話が合い、思ったよりずっと早く打ち解けた。
 滋は、久しぶりに着物姿できちんと決めた伊都子に深々と頭を下げ、絵を持ってくるつもりだったのに、和一郎がとぼけてどうしても行方を言ってくれないので、もう少し時間がかかることを詫びた。
 伊都子はきょとんとした。
「あの絵は、お宅のものですわ。 私はモデルにしていただいただけで、持つ権利などは……」
「いえいえ、父は貴方に差し上げるつもりでした。 母が、部屋に飾る勇気がないと言うものですから」
 伊都子はころころと笑った。
「勇気なんて。 そうだ、いい機会だから本当の事情を話したほうがいいでしょうね」


 リビングのテーブルの向こう側で、翼からなれ初めを聞き出そうとしていた弟の勇吾が、不意に振り向いて伊都子を眺めた。 彼は人間関係には鈍感なようでいて、ときどき意外なほど勘が働くのだ。
 そんな孫に微笑んでみせてから、伊都子はリラックスした様子で語り出した。
「私は、確かに木元直昭さんが好きでした。 あの当時、若い娘ならたいてい直昭さんに憧れたと思うわよ。 遊び上手で気前がよくて、いろんなことを知っていて。 おまけに、ふるいつきたくなるような良い男前で」
 そう言いながら、伊都子はチラッと翼に目を走らせた。
「携帯で写真を見たとき、懐かしかったわ〜。 あなたもよく似てらっしゃるけど、翼さんは本当にそっくりね」
「中身は地味なヤツですよ。 親父とちがって」
「だからいいのよ」
 伊都子は遠い目になった。
「直昭さんが彼のようだったら、私は離れなかったわ。
 でも、直昭さんは眩しすぎた。 私にはスケールが大きすぎたのね。 彼はおとなしくてよく言うことを聞く娘と結婚したかったようだけど、私は家でチンと座って、外で楽しんでる直昭さんをただ待つだけの生活はしたくなかったの」
 そこで伊都子は、思いがけなくチラッと舌を出した。
「それで、踊りの上級クラスにわざと連れていったのよ。 あのときの名取りさんたちは、みんなひとかどの人たちだった。 有名な舞妓さんとか、デパートの持ち主のお嬢さんとか。
 直昭さんは踊りが何より好きだったでしょう? だからきっと、あの人たちの誰かに引きつけられると思ったの。 そうしたら」
「そうしたら?」
 思わず、滋は吸い寄せられるように尋ねた。
 伊都子は目を閉じて首を縦にゆっくりと動かした。
「佐喜子さんは一目惚れだったわ。 見ていてわかったの。 人が恋に落ちる瞬間を目撃したのは、あれが最初で最後だった」
 話しながら、頬にうっとりと笑みが浮かんだ。
「すてきな眺めだったわよ。 そのとき、佐喜子さんは『鷺娘〔さぎむすめ〕』の稽古をなさってたんだけど、背筋がこう、きりっと張ってね、体中が急に光リ出した感じだった。 そっと横を見たら、直昭さんも微笑んでいた。 見とれてたの。 これはうまく行くなって、直感でわかったわ。
 だから、目立たないように部屋を出た。 変な言い方だけど、肩の荷が下りたわ。 恋愛というより、憧れだったのね、きっと」
 そこで伊都子は、茶目っ気のある表情をした。
「振られた負け惜しみじゃないわよ。 でも、そう思われてもかまわないわ。 だって本当に、直昭さんは素敵だったんだもの。
 うちの父だって、婚約がご破算になっても怒らなかったわ。 貸したお金は、初めからなかったことにしようと私に言った。 直昭さんは恐縮していて、その後も父にいろんな人を紹介してくれて、仕事がはかどったから」
「お宅のお父様のほうが大物ですよ」
 茂は親愛を込めて答えた。
「お顔が温かい。 お幸せだったとお見受けします」
 伊都子は車椅子の上で、満足げに背筋を伸ばした。
「ええ、いい縁に恵まれて、悔いのない人生でしたよ」












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