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夏は謎  -93- 緊急避難






 佐喜子は下を向き、ガーゼのハンカチを上着のポケットから出して、涙を拭いた。
「いいのよ、そんな。 あの子の家には車椅子で動ける設備がないし」
「じゃ翼がここに泊まり込む方がいいでしょうか?」
 心が動いた様子で、佐喜子は少し考えた。
「ええ……いえ、翼の仕事場から遠くなっちゃう。 おまけに、あの子がもし危ない目に遭ったら大変」
「そうなら、常駐のガードマンを雇うとか、警察のパトロール強化してもらうとかは?」
 敏美が懸命にアイデアを出すと、佐喜子の口の端に小さな笑みが戻った。
「どっちも大げさだし、私の場合は守れるとは思えないわ。 ちょっと違うんだもの」
「どう違います?」
 佐喜子は首を振った。 とたんに口が重くなった。
「うーん……説明しにくいのよ。 証拠があるわけでもないし」
 敏美はドキッとなった。 証拠という言葉が生々しい。
「やっぱり犯罪ぽいんですか? 睡眠薬なんて、ご自分では飲みませんよね?」
 やや沈黙があって、佐喜子は小声で認めた。
「そうなのよ。 いよいよ来たなと思った。 病院で目が覚めたとき」
 これは一人でなんとかできる状況じゃない。 敏美はギュッと歯を噛みしめて、役に立つことを何でも思いつこうとした。
 その結果、ニュースでときどき見る光景が頭に浮かんだ。 追求されそうになった政治家が、いきなり入院する病院の映像だ。
「設備が整っているなら、ケアホームですよね。 人がたくさんいて、夜中でも看護師さんの見回りがあって、安全ですよ」
「老人ホーム?」
 佐喜子は嫌そうな顔をした。 いくら行き届いた世話があっても、介護施設入りはためらわれるのだろう。
 敏美は説得しようと試みた。
「危険がなくなるまで、ちょっとだけの間」
「由宗をホテルに預けたみたいに?」
 困って、敏美は答えられなくなった。
 すると、佐喜子は苦笑して言い添えた。
「やぁね、この年になって、おまけに足がこうなっちゃうと、すぐひがみが出るのよ。
 別荘へ行ったと思えばいいわよね」


 翼に電話連絡すると、家に引き取りたいと心配していた彼は、すぐ調査を始めると言った。
「近くてしっかりした施設で、よく面倒を見てくれるところがいいな。 明日は土曜日だから、いくつか見学してくるよ。 一日も早くその家を出たほうが、グーちゃんのためだ」


 由宗のいない木元邸に、敏美は時間一杯まで留まっていた。 そして、真剣に佐喜子の話し相手になった。
 佐喜子によると、異変は去年の夏頃から始まったということだった。











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