表紙 目次 文頭 前頁
表紙

夏は謎  -91- 鍵を返却






 佐喜子の態度には、これまでの親しみのかけらもなかった。 顔立ちは冷ややかで、目は無表情だ。 とりつくしまがなくて、敏美はありきたりな別れの言葉を告げるしかなかった。
「じゃ、失礼します。 これまでありがとうございました」
 対する佐喜子は軽くうなずいただけで、素早く車椅子を回して廊下を遠ざかっていった。


 スクーターのところへたどりつくまで、敏美は何もまとまったことが考えられなかった。 突然突き放されたことへの怒りと不安、納得のいかない疑問が大量に脳内で渦巻いて、これでちゃんと運転できるのかと自分で心配になるほど動揺していた。
 愛車の横でいったん止まったとき、別の問いが心に吹き出してきた。
──私は孫のフィアンセなんだけど。 あんな冷たい態度取っていいって?──
 そこから連想が飛んだ。 突き放すようなあの言い方、岩のような態度。 木元夫人はいきなり、婚約反対に回ったんじゃないだろうか。
「そんな……!」
 敏美は青ざめた。 もう翼との未来は百パー決まって、後の山場は週初めのご両親との対面だけだと思っていたのに、想像もできなかった強敵が立ちはだかるのか。
 翼の気持ちは堅いと思う。 だが、彼が珍しいほど祖母思いなのも確かだ。 強く交際に反対されたら、気持ちがゆらぐかもしれないのだ。
 スクーターを乱暴に動かそうとした手が止まった。 目先に膜がかかったようになって、視野がかすんだ。
──やだ、これって涙じゃないよね?──
 敏美は急いで深呼吸した。 考えすぎだ。 先の心配ばかりして、勝手に落ち込んでる。
 首を振って視界をクリアにすると、敏美はエンジンをかけた。
 ブルルーという快調な音が耳に入ってきたと同時に、はっと気づいた。
 まだ鍵を預かってる。
 すぐに返さないと、あらぬ疑いをかけられそうだ。 いや、もう怪しまれているのかもしれない。 だから態度が百八十度変わったのかも……。


 玄関に引き返すのは、大変な勇気が要った。 足が重いなんてもんじゃない。 ほとんど引きずるようにして引き戸の施錠を解き、中に声をかけた。
「すみません。 お預かりしていた鍵、お返しします」
 返事はない。 あけっぱなしの玄関に置いていくわけにはいかないので、敏美はやむをえず靴を脱いで、廊下に上がった。


 いつもの客間に佐喜子がいなかったら、メモを書いて鍵を上に置いていこう。 無意識に肩をいからせるようにして、敏美は廊下の端に向かった。
 歩いているうちに、かすかな音が聞こえてきた。 だんだん大きくなってくる。 敏美は眉を寄せた。
 これは……泣き声じゃない?











表紙 目次前頁
背景:月の歯車
Copyright © jiris.All Rights Reserved

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送