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夏は謎  -82- 婚約祝い





 一瞬、佐喜子の表情が動きを止めた。 それから、思いがけないほどの喜びが爆発した。
「えーっ、もうそこまで話が進んじゃったの? すごいねえ、よかったねえ!」
 で、気がついてみると、三人は輪になって手をつないではしゃいでいた。


 五時半になってデイケアの女性が現れるまで、陽気な婚約祝いが続いた。 念のためチャイムを鳴らし、声をかけながら入ってきた三十代の介助員は、顧客が二人の若者と切子グラス入りの赤ワインで乾杯していたので、びっくりして客間の入り口で足を止めた。
「こんばんは。 楽しそうですね。 お客様?」
「ああ田中さん、いらっしゃい。 お客といってもね、孫と婚約者なの」
「まあ、そうですか」
 少し疲れ気味の顔をした田中は、幸せ感一杯の翼と敏美を穏やかに眺めた。
「こ婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 二人は声を揃えて答えた。 本当に気が合ってきたようだ。


「今日は夕御飯食べれそうもないですねー」
 栄養がちょっと心配だが、一日ぐらいならしょうがないだろうという口ぶりで、田中は佐喜子の車椅子に手をかけ、さっさと押して出て行った。 これから入浴の世話をして、寝室を整え、寝る支度を手伝うのだ。
 田中さんがあまりにも事務的に、あっさり佐喜子を連れていってしまったため、残された二人は急に手持ち無沙汰になった。
「おっと、おやすみも言えなかった」
「あちこち回るから、手順よくやりたいんでしょう」
 自分も似た仕事についているだけに、敏美は介助員に同情的だった。


 玄関にいた由宗と少し遊んだ後、二人は犬にグリニーズ(犬の玩具)を渡して外に出た。
 まだ空は明るかった。 二人の手は自然に繋がり、歩くリズムを合わせて前庭の敷石を踏んだ。
「木元さん喜んでくれたね」
「だから言ったろ? ほんとに望んでたんだって」
 ほっこりと心が温まるのを感じながらも、敏美の胸にはまだかすかなこだわりが残っていた。
 青春時代のライバルの孫を、なぜ歓迎して家族に受け入れるんだろう……。


 でも、翼の車に乗って帰る途中では、彼の誕生日プレゼントに考えが行き、他の気がかりはすっかり薄れてしまった。
 翼は、どんなものでも嬉しいと言ってくれたけど、やっぱり喜んでもらえるものを選びたい。 彼の家にも行ったし、あそこにふさわしい置物なんかだと……。
「趣味じゃないとか言われそう」
 思わず独り言をつぶやいてしまって、敏美はまばたきした。












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