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夏は謎  -57- 犬のため





 敏美は困った。 急になれなれしくされるのが嫌なだけで、別に谷中自身が嫌いなわけではない。 それに、顧客の親戚に悪感情を持たれると、後が面倒だった。
「そんな。 嫌いとか、そういうんじゃなくて、ゆっくり食べに行く時間がないんです。 朝は八時半出社だし、最近は残業が多くて」
「うわ、こき使われてるんだ」
 和一郎は真顔で同情した。
「じゃ、週末はぐったり?」
 敏美は何とか笑顔を浮かべることができた。
「いえ。 休みは実質半日しかなくて、たいてい実家に帰るんで」
「うわー」
 今度の驚きは本格的だった。
「いったいいつ休むの」
「できるだけ早く寝るようにしてます」
「ああ」
 これでは誘う隙がない、と、プレイボーイも悟ったようだった。
「それじゃデートもできないね」
 瞬間、敏美の目が泳いだ。 ほんの一瞬だったが、和一郎は気づいた。
「ん? 余計なこと言ったかな?」
「いえ……」
 そのとき、まさにいいタイミングで由宗が吠えた。 たった一声だったが、腹ペコだから迫力があった。
 救われた思いで、敏美は犬に屈みこんだ。
「ごめん、お腹すいてたね」
「おっと、仕事の邪魔しちゃったな。 君、ちゃんと有給取りなさいよ、倒れちゃう前に」
 明るい微笑を残して、和一郎は愛車を出し、なめらかに遠ざかっていった。
 磨き上げられた車体を見送りながら、敏美はようやく気づいた。 乗せてもらったお礼を言い忘れたことに。




 翌日、いつものように翼が電話してきたとき、敏美は和一郎に誘われたことを話した。
「どこで会った?」
「等々力公園に散歩に出たとき。 そうだ、昨日はケータイかけてこなかったね?」
「仕事中、上司がずっと傍にいてさ。 ウザイよな、まじで」
 ぼやいてから、翼は本題に戻った。
「だけど、おっさんが敏美を食事に誘った?」
「意外?」
「いや別に」
 これは思わぬ答えだった。
「敏美かわいいもん。 目つけられたって不思議ないよ」
「そう、ありがと」
「でも、断ったんだよな?」
「てより、行く時間ない」
「おっさんは女に手が早い」
「わかる」
「だからって無理には襲わない」
 敏美は吹き出しそうになった。
「あたりまえでしょう!」










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