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夏は謎  -54- ある名前





 結局その日は最後まで、翼の名を呼び捨てにすることはできなかった。
 そうなると翼のほうも言えなくなって、敏ちゃんと呼び続けた。 だが、いつものお茶の後、玄関まで送ってきたとき、別れ際に突然、一言だけ発した。
「敏美」
 でも、敏美が驚いて目を上げると、へたれて小さく付け加えた。
「ちゃん」
 とたんに可笑しくてたまらなくなった。 二人は目を合わせたまま吹き出し、笑い転げた。




 来週は必ず名前を呼ぶと敏美が約束して、お別れに軽く唇を合わせた。 それからまた手を繋ぎ、表まで出た。
 寄り添った姿が、初夏の乾いた庭にずんぐりした影を作った。 くっきりしたその影を見ながら、敏美は考えた。 お互いが呼び捨てになじんだ頃には、実家に彼を連れていけるだろうか。 昔のほろ苦い初恋を、イッコさんに懐かしんでもらうために。
「佐貴子さんは、愛するご主人によく似てるから、あなたに作務衣着てほしいんだよね?」
 敏美の手をしっかり握り、わざと極端にゆっくり歩きながら、翼は淡々と答えた。
「そうだよ」
「でも、同じくらいよく似てる谷中和一郎さんが来ても、あなたほど喜ばないみたいね」
 そこで敏美は、重大なことに気づいた。
「あれ、谷中って佐貴子さんの結婚前の苗字でしょう? その名のついた和一郎さんが、なんで木元直昭さんにそっくりなの?」


 二人は同時に立ち止まった。 バイクまでは、まだ五メートルほどある場所で。
 翼は複雑な表情になって、敏美を探るように見た。
「和一ちゃんはもともと木元家の親戚なんだ。 ただ、踊りがめちゃうまかったもんで、星芯流の跡継ぎとして養子に入った。 古典舞踊や歌舞伎では結構あることなんだ」
 なるほど、と敏美が納得していると、翼が声を落として尋ねた。
「ねえ、どこでジーちゃんの名前知った?」
 えっ?
 突然思いがけないことを尋ねられて、敏美があたふたしていると、翼は更に畳みかけた。
「グーちゃんは普通、うちの人としか呼ばないんだ。 まあ一度ぐらいは名前言ったかもしれないけど、それで覚えちゃうとしたら、すごく記憶力がいいんだね?」








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背景:月の歯車
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