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夏は謎  -53- 呼び名は





 結局、敏美が実家に戻っている短い時間に、勇吾は帰ってこなかったし、相変わらず電話も通じなかった。
 仕方なく、敏美は弟に相談するのを諦め、乾いた洗濯物を袋に詰めこんで、電車に乗った。


 二時少し前、木元邸に到着すると、ジーンズ姿の翼が庭で由宗と遊んでいた。
 敏美とバイクを見て、翼は顔中を笑いに崩して歩いてきた。 由宗も舌を見せてハアハア言いながら、走り寄った。
「由宗クン、来たよ〜。 あれ、今日は作務衣じゃないの?」
 後半の問いは、もちろん翼に向けられたものだった。 翼は笑顔のまま、ポケットに手を突っ込んで、バイクを立てている敏美の横に来た。
「クリーニングに出してるの忘れてて、グーちゃん機嫌悪い」
 それから、前かがみになって敏美に軽くキスした。
「会いたかった〜。 昨日の今日だけど」
 敏美も彼の胸にそっと寄りかかり、額で軽く押した。
「私も〜」
 気が気でない様子で、由宗が二人の周囲を回り、鼻を鳴らして空腹を訴えた。


 いつも通りの散歩だったが、一つだけ違っていた。 出発してすぐ、二人の手が自然につながり、握り合ったまま歩き出したのだ。
 仕事中にこんなんでいいのかな、と、敏美のほうは一瞬思った。 でも、すぐ忘れた。 由宗を放ったらかしているわけではない。 むしろ、二人で面倒見ているので安心だ。 犬もこの情況が大好きで、変わりばんこに横へ並び、さっそうと歩いていた。
 もう黙っていても気まずい空気はなかった。 むしろ気持ちが穏やかで、落ち着いていられた。
 三ブロックほど進んだところで、翼がおもむろに口を開いた。
「あのな、オレの呼び方、まだ迷ってるだろ?」
 敏美は苦笑した。
「そうね」
「じゃ、呼び捨て。 お互いに。 どう?」
 わお。
 すごい恋人っぽい。
 これまでで一番わくわくするかもしれない、と敏美は思い、恋愛中だという実感にひたった。
「それ、いい」
「いい?」
「うん、これまで男子を呼び捨てにしたことないけど」
「言ってみな」
 えー。
「そっちからどうぞ」
「そっちじゃなくて、翼。 さあ言って」
 敏美は照れて、下を歩く由宗にグチった。
「急にいわれても、ねぇ?」









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