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夏は謎  -49- 祖母の顔





 早めに寝たため、翌日は六時前に目が覚めた。
 カップスープと冷凍マフィンをチンして、バッグにいろいろ詰める合間に食べた。 今日は午後一時までに戻ってこなければいけないから、実家には三時間ぐらいしかいられない。 それでも行くのは、弟の勇吾に訊きたいことがあるからだった。


 季節は急速に夏に近づいていた。 電車の中は空調が効いているからいいが、降りてホームに立ったとたんに、汗がにじんで手がべっとりした。
 家にたどり着くと、すでにエアコンがついていて、敏美はホッとした。 しかし、肝心の弟がいない。 いつもはリビングでごろごろしているくせに、今日に限って友達が迎えに来て、どこかへ行ってしまったそうだ。
「友達って男?」
 乾燥機つきの洗濯機に洗い物を放り込んでから、敏美はキッチンにいる母に尋ねた。 母は笑いながら答えた。
「うん、男」
「ダメなヤツ」
 切り捨てた敏美は、ふくれっ面でソファーにドンと腰を落とした。
「訊きたいことがあったのに」
「なに?」
「いや」
 なんとなく、母にはまだ打ち明けたくなかった。 付き合うことになったばかりの男子に、どんなバースディ・プレゼントを買ったらいいか、なんて。
 でも、それを話さないと、土曜の夜にどこへ言ったかも話せない。 ニつか三つ、職場の同僚の笑えるエピソードを語った後、敏美は母の作ってくれたアイスコーヒーを持って、早々に席を立った。
「これ、イッコさんに持ってくわ」
「じゃ、私の分もあげるから、持ってきなさい」
「あーごめんね、一緒に飲めなくて。 イッコさんに顔見せしたら、すぐ帰ってくるよ」
「ゆっくりしといで。 私は逃げないから」


 祖母の伊都子は、敏美の顔を見て意外なほど喜んでくれた。
「あら、今日はもう帰ってこないと思ってた」
「うん、すぐ戻らなきゃならないんだけど、勇吾に訊きたいことがあって。 あいつしょっちゅうケータイ切ってるでしょう? 昨夜二度かけたんだけど、出ないの」
「充電し忘れたんじゃない? あの子の頭、どっかに穴開いてるのよ。 買い物頼むときは一つじゃなけゃ駄目。 二つ以上頼むと、必ず一個は忘れてくるんだから」
 ああ、だからイッコさんは勇吾を認めないんだな、と敏美はようやくわかった。 勇吾は頭脳明晰だが、注意力散漫なのだ。
 伊都子だと、ある部分では母の絹世より話しやすかった。 敏美は、二人でコーヒーを飲みながら、初めて行った日本舞踊の会のことを語った。
「お客さんの親戚が家元でね、発表会のタダ券くれたから、見に行ったの。 生まれて初めて和服着ちゃった」
 伊都子は驚いた。
「あんた一人で着付けできたの?」
 コーヒーの冷たさがゆっくり胃に下がっていくのを楽しみながら、敏美は首を振った。
「ううん、ちがう。 そんなのできないよ。 お客さんがやってくれたの。 娘か女の孫がほしかったのに、どっちも生まれなかったから、私に着せてみたかったんだって」
「ふうん」
 伊都子は目をパチパチさせた。
「あんたは私の孫よ。 勝手に自分の子や孫みたいにしてほしくないわ」
「あれ、焼餅やいた?」
 思わぬライバル心に、敏美はびっくりした。
「そりゃそうよ。 今どき孫は貴重なんだから。 子供の数が少ないでしょう?」
 確かに。 敏美は引っ張りだこになったような気がして、ちょっと嬉しくなった。
 伊都子は、額に皺を寄せて尋ねた。
「そのお客さん、何ていう人?」
「木元さん。 木の根元って字。 世田谷の古いお屋敷に、一人で住んでるの」
 不意に、伊都子は大きく息を吸い込んだ。 胸が波のように盛り上がるのが見えた。








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