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夏は謎  -46- 静かな夜





 やがて舞台を降りてきた翼は、ちょっと不機嫌になっていた。
「和一ちゃんが、この後の打ち上げ会に、一緒にどうかって」
 佐貴子が嬉しそうに口を開けたのを見て、敏美は急いで先に答えた。
「残念ですけど、私は明日実家に帰るんで、早く寝ないと。 着物は一人で脱げますから、洗えるものは洗って月曜日に持っていきます。 木元さん今日はお誘いありがとうございました。 すごく楽しかったです」
「まあそうなの? 本当に残念ねぇ」
 佐貴子はがっかりした顔をした。


 祖母とは対照的に、翼はまた明るくなって、帰宅計画を練りはじめた。
「まずグーちゃんを会場まで連れてって、それからここへ戻って、敏ちゃんを家まで送るよ。 近くの食べ物屋へ行くらしいから、すぐ戻ってくる。 待ってて」
「たくさん運転して疲れない?」
 心配して敏美が訊くと、翼は軽く笑い飛ばした。
「へいきへいき。 明日は日曜だもん、ずっと寝てたっていいんだ」
 口笛を吹きそうな様子で、彼が車椅子を押していくのを、敏美は見送った。 そのとき、遠ざかっていく佐貴子の声が耳に届いた。
「敏ちゃんだって?」
 それは、からかうような、面白がっているような、温かい響きを持っていた。
 翼はすぐ早口で言い返した。
「いいだろ? そう呼んだって。 もう友達なんだから」
「ダメだなんて、いつ言った? あんたがその気になってくれた方が、話が早いわ」
「だーかーら、それとこれとは筋が違うって」
 その辺りで、二人の会話は周囲のざわめきに紛れて、聞き取れなくなった。


 発表会の終了は、九時五分だった。 気温が二十度ぐらいの、気持ちがいい夜だったため、敏美が公会堂を出て建物の入り口付近で待っていても、寒くも暑くもなくて過ごしやすかった。
 見物客が帰り、二次会に参加する連中が賑やかに徒歩で出ていった後、翼が祖母を車に乗せ、敏美に手を振って発車させた。
 この様子だと、十分以内に戻ってきてくれそうだ。 ずっと座っていて体が強ばっていたので、敏美は足慣らしに歩き出し、公会堂と公民館をつなぐ広々としたピロティをゆっくり移動した。
 三時間以上和服を着ているわけだが、苦しくはなかった。 帯の結び方にコツがあるらしい。 下側を体に沿わせてきっちり巻いて、上は指一本入るぐらい緩めてある。 こうすると胸が締め付けられなくて、呼吸が楽だった。


 やがて、うっすらと霧が出てきた。 規則的に並ぶ街灯が、にじんだように見えて、ロマンティックな雰囲気になった。
 その中を、見覚えのある車がやってきた。 翼が迎えに来たのだ。 敏美は嬉しくなって、小走りに近づいた。
「お待たせっ」
 元気な声と共に、ドアが開いた。 敏美は上手に助手席へすべりこんだ。








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背景:月の歯車
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