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夏は謎
-38- 知らん顔
翌日は小雨だったが、昼には止んで、どんよりした曇り空に変わった。
木元邸に着いて玄関に入る前、敏美はどうしても横手に回って、二階の窓を見たくなった。 昨夜の夢が、それほどなまなましかったのだ。
だが、下から見上げて安心した。 窓の形が全然違った。 外開きではなく、引き違い窓になっている。 やはりあれは何かの予兆ではなくて、ただの消化不良による悪夢だったようだ。
ホッとした気分で玄関口に戻ると、ガラスの向こうに小麦色のシルエットが映って、小さくクンクン言いながら戸の桟を引っかいていた。 柴犬の由宗が、普段と違う行動をしている敏美を待ちくたびれて、催促している様子だった。
その日は手順をまちがえなかった。 由宗にしっかりと食事を与え、リードをつけて散歩に出かけた。 逆の順番のほうが消化にいいのだろうが、由宗クンは満腹でないとトイレをしたがらない犬なのだ。
歩き出して五分ぐらい経ったとき、電話がかかってきた。 相手は翼だった。
「よぅ、今散歩中?」
「そう」
「なんか、声が聞きたくなって」
無意識に、敏美の頬がほころんだ。
「うん?」
「昨日のケーキ、みんな食った?」
笑い出しそうになりながら、敏美は認めた。
「うん、失敗した。 食べすぎで、ウップってなった」
「やっぱり? あれ上等すぎて、脂肪分がすごいのな。 オレ3つ持って帰ったんだけど、夕飯食えなかった」
「踊りの先生って、ああいう物たくさん貰ってるのかな?」
「オレは和一ちゃんしか知らないけど、付け届けが凄いよ。 ああ見えてすげー甘党だから、ウィスキーボンボンとかチョコレートとかの箱が、いつも車に入ってるの。 きれいな包装紙のやつが」
「あのかっこいいレクサスに?」
翼の声が微妙に変わった。
「え? なんで和一ちゃんの車知ってる? グーちゃんの家の前には停めてなかったよね。 レッカーされちゃうもん」
それで敏美は、四つ角のちょっとした事件を報告することになった。
聞いた後、翼は考えながら、ゆっくりと言った。
「止まって和一ちゃんの顔を見たんだな。 オレとか写真のジーさんに似てるから、びっくりしたんだよな? お互いよく見えたはずなのに、グーちゃんとこに来た和一ちゃんは、まるっきり初対面って感じだった」
「一回ちらっと見たぐらいじゃ、ふつう覚えないよ」
「和一ちゃんは違うの」
翼はきっぱりと言い切った。
「昔から人の顔覚えるのがうまいんだ。 特に女性の顔は。 星芯流は大きな流派じゃないけど、それでも関東に三つ、東北に二つ、中部に二つ支部があって、女のお弟子さんが四百人はいる。 それ全部名前を覚えてて、顔と一致するんだって」
「すご〜い」
敏美は目をパチクリさせた。
それから由宗クンお気に入りの等々力渓谷へ行くまで他愛のない世間話を続けて、橋のたもとで携帯を切った。
その後、静かな景勝地をさまよいながら、敏美は幾度も和一郎の態度について思い起こした。 最初に接触したときも、敏美はペットセンターの制服を着ていた。 同じ服に同じ顔。 本当にまるっきり見覚えがなかったのだろうか?
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