表紙 目次 文頭 前頁 次頁
表紙

夏は謎  -16- ガス欠で




 その週は、天気が変わりやすかった。
 晴れて猛烈に暑くなったり、不意に風向きが変わって雨が降り、気温が十度も下がったりした。
 たぶんそのせいだろう。 宮坂ペットセンターの従業員に風邪が流行って、入れ替わり立ち替わり休みを取った。 スケジュールを調整する山賀〔やまが〕主任がお手上げになるほどの勢いだった。
 しわ寄せが、なんとか無事でいる連中にのしかかった。 敏美もその一人で、時間の取り替えの効く家に残業で行かされた。


「うぅ、疲れた〜」
 木曜日の午後六時半過ぎ、夕日を浴びて玉川通りを歩きながら、敏美は思わず独り言を言った。
 脇には動かなくなったスクーターを引いている。 情けないことに、ガス欠を起こしてしまったのだ。
 普段は決してないことだった。 やはり三日続きの残業が、注意力を鈍らせているらしい。 朝に満タンにしておくはずが、すっかり忘れていた。
 それで、ガソリンスタンドを探して歩く羽目になった。 確か、もうちょっと行くと右側にあったと思うのだが……
 後ろから走ってきた車が横でスピードを落とし、スッと止まった。 聞き覚えのある声が呼びかけてきた。
「どうした? 車壊れた?」


 敏美は、がっくり落ちていた顔を上げた。 なんだか急に残り日の陽射しが柔らかくなったように感じられ、心が華やいだ。
 横に首を曲げると、予期した通り、青い車の窓から翼が顔を覗かせていた。 敏美は照れ笑いを浮かべ、小声で言った。
「ガソリン入れ忘れた」
「あーあ」
 翼は冗談交じりに溜息をつき、左手で少し先を指した。
「もう少しだ。 二十メートルぐらい先にあるよ。 ほら、看板が見える」
「ほんとだ」
 敏美は少し元気が出た。


 オレもついでに入れとく、と言って、翼は先に走らせていき、スタンドで待った。
 そして入れ終わってからも、すぐ去らずに立ち話を始めた。
「まだこれから行くの?」
「ううん。 やっと回り終わったとこ。 病欠がたくさんいて、ほぼ毎日残業」
「ひでーな」
 翼は同情した。
 そんな彼が作務衣を着ていないことに、敏美は今ごろ気づいた。 ゆったりしたグレーのシャツとベージュのチノパン姿だ。 思ったより肩幅が広いので、だらっとしたシャツでも安っぽくならず、むしろ体の輪郭を際だたせて格好よく見えた。







表紙 目次前頁次頁
背景:月の歯車
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送