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夏は謎  -8- 犬の事情




 結婚して木元になる前の佐貴子の実家は、羽振りのいい商家だったらしい。
「神田に鞄の店を開いていて、戦争前は栄えてたようだ」
 今から七十年以上前のことだ。 まだ佐貴子はほんの子供だっただろう。
「奥さんはお嬢様だったんだ」
 敏美の言葉に、翼は微笑を浮かべた。 すると、くっきりした眼に和らぎが出て、一段と魅力的に見えた。
「普通の下町の子だったと思うよ。 今でもガサガサしてるし」
「そうかな。 でも、紅茶の入れ方がすごく……」
 そこで由宗が立ち止まって背中を丸めたので、敏美は口を閉じ、急いで紙スコップを持って走っていった。


 話を交わしながら清流の横を歩いていると、何人かの人に行き会った。
 デジタルカメラで風景を撮っている男性や、孫らしい男の幼児の手を引いた老人、折りたたみ椅子に腰を乗せて、じっくり写生しているおばさんもいた。
 みんな穏やかで、満ち足りた表情をしていた。 ゆったりした水辺には、人の心を落ち着かせる効果があるらしい。
 敏美もリラックスして、作務衣姿の青年と歩く時間を楽しく思うようになっていた。
「日曜日はいつもこっちに?」
「そう。 時間はまちまちだけど、由宗のためにね」
 確かに、柴犬は翼によくなついている。 由宗は二人に挟まれる形で歩くのが嬉しいようで、交互に顔を見上げては、にんまりした笑顔になった。
 その様子が何とも可愛く、敏美は手を伸ばして頭をクリクリッと撫でた。
「いいねー由宗クン、大事にしてもらって」
「初めは違ったんだよ」
 由宗のつやつやした薄茶色の背中に目をやりながら、翼はさりげなく言った。
「オレの隣の家が、転勤で外国に引っ越すことになって、保健所へ連れていこうとしてたんだ」
 冷水を浴びせられたようになって、敏美は手を引っ込めた。
「そう……」
「だから、グーちゃんをうまいこと説得して、番犬にって押しつけた。 オレん家はアパートで、動物は飼えない」
「いいことしたよね」
 反射的に、タメ口が出た。 若い彼が、きちんと日曜日ごとに世話をしに来る理由が、よくわかった。
 気がつくと、翼も由宗と同じく、にんまり系の笑顔を浮かべていた。
「グーちゃんもそう言ってるよ。 毎週いやでもオレが行くから、引き取ってよかったって」


 二人と一匹が渓谷から上がってきたのは、予定の三十分を七分近くも過ぎてからだった。
 先に気がついたのは、大きなデジタルの腕時計を嵌めた翼のほうで、ちらっと文字盤を見て目を見張った。
「あれ、もうこんなに経った?」
 敏美も反射的に、彼の時計を覗きこんだ。
「四十七分……そろそろ次の家に行かないと」
「だよな。 急ごう」
 そわそわし出した二人を見て、すぐに由宗も足を速めた。


 そういうときに限って、交差点でストップがかかる。 チカチカしていた黄信号が赤に変わり、二人は顔を見合わせて立ち止まった。
「早く早く」
 翼が口の中で呟いた。 その直後、いつも静かな由宗がいきなり、ウワン! と大きな声で鳴いた。





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