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表紙

戻れない橋  81 愛人の弱み


 上がり性の千早は、失敗を犯していた。
 バッグから小さな録音機を出し、申し訳なさそうに言った。
「あの、緊張してボタンを押すのを忘れてて、最後のところしか入ってないんだけど」
 望月は苦笑いし、五十嵐は唸った。
「しょうがないな」
「いいよいいよ」
 望月はあくまでも優しかった。
「思い出せるだけ、話して」
 しゃべるのが苦手な千早だが、その部屋にいるのがすべて味方だとわかっているので、一生懸命事情を説明した。
「天野さんは、初めは波谷に誘われて、嬉しかったらしいわ。 ハンサムで素敵だと思ったって」
 波谷と顔立ちがよく似ている五十嵐に、望月がからかい半分の視線を向けた。
 五十嵐は面白くなさそうに望月を見つめ返すと、やや冷ややかに言った。
「付き合っても、正式な奥さんになれないのはわかってたはずなのに」
 一同は押し黙った。 確かに波谷は、千早の婿だからこそ将来のある身だった。 離婚は絶対にするはずがない。
 千早は少し迷った後、おずおずと話を続けた。
「でも、すぐわかったって。 彼が自分のことしか考えてないのが。
 だからだんだん嫌になって、他に好きな人ができたの。 で、子供が生まれるとわかって、その人と駆落ちして結婚したんですって」


 意外な落ちに、残りの三人は目を丸くした。
「波谷の子という可能性は?」
 望月が反射的に尋ねた。 千早は顔を赤くして、言いにくそうに答えた。
「波谷は必ず避妊したそうよ。 彼女に任せておくほど信用できないと言って」
「そうか。 子供ができたとわかって逃げ出すわけだ」
「ええ」
 千早の目が、機嫌よく笑っている赤ん坊の写真に落ちた。
「だからこの男の子の写真を持ってきたの。 全然波谷に似てないのを見せたかったんですって。 今の写真は見せられないけど、赤ちゃんのときのならいいと思って」
 赤ん坊はハイハイできるほど成長していて、髪の毛がかわいらしく縮れ、目が見事な二重だった。
「この子のお父さんはアメリカ人で、息子にそっくりなんだそうよ。 外資系の会社の人」
「幸せなんだな」
「うまく行ってるって。 下に妹がいると言っていたわ」
「逃げてよかったよな」
 五十嵐が唸り、ソーダを口にした。
「どうせ波谷は、円満に別れるはずなかったんだろう?」
「ええ」
 千早は溜息をついた。
「独占欲の強い人だったから。 天野さんと出かけたとき、波谷は彼女がちょっとでも他の男の人を見ると怒ったって。 私にも覚えがあるわ。
 それで、他に好きな人ができたなんて言えば殺されるかもしれないと本気で思って、見つからないように留守の間にマンションを引き払い、横浜に逃げたの」


 逃げてから、もう十年近く過ぎた。 だから天野(今は別の姓になっているが)も警戒がゆるんだ。 冬休みのうちに、息子が待ち望んでいるモーターショーが埼玉で開かれるのを機会に、ついでにDランドでゆっくり遊んでいこうと休暇を取り、親子四人で久しぶりにこっちへ来たという。
 駅で昔の看護師仲間に電話したところ、波谷が行方不明になっていることを知った。
 それも、彼女が逃げ出したすぐ後に。
「時期を聞いて、ぞっとしたのね。 別れるときのごたごたで、波谷をこ……殺したんじゃないかと疑われたらと気がついて」
「で、君は何と答えた?」
 望月が心配げに身を乗り出した。 すると千早は顔をうつむけて、録音機の再生ボタンを押した。
 短い録音だが、きれいに入っていて、よく聞きとれた。
 天野の声は涙混じりで、波谷が泊りがけのゴルフ大会に行くのが前もってわかっていたから、その間に夜逃げしただけで、揉め事なんかまったくなかった、と弁明していた。
 それに対する千早の答えは、こうだった。
『どうか顔を上げて。 あなたが波谷に何かしたなんて、思ったこともありません。 父も同じ考えでしょう。 あの人は男で、力も強かったし』
 救われたように、天野は細い声を張り上げた。
『そうですよね? ただ、うちのジャックは、夫なんですけど、大きくて強いんです。 気持ちはとっても優しいんですけどね。 子供好きで』
『波谷とは違いますね』
 千早はしみじみと言った。
『はい。 奥さんの前で失礼ですけど、顔と中身があんなに違う人とは思わなかったです』
『波谷が戻ってこないので、父は失踪宣告を出してもらいました』
『昔の同僚から聞きました。 でもまだ怖いんです。 私も夫も、彼には何もしていません。 誓います。 だから、いつか先生がふらっと帰ってくるかもしれないんですよね』
 千早は絶句した。
 その沈黙を、天野は別の意味に捉えた。
『ごめんなさい、奥様まで怖がらせるつもりはなかったんです。 再婚なさったそうですね』
『ええ』
『お幸せそうなのに、こんなこと言いに来てすみません。 奥様はずっとお一人で通してらっしゃったから、波谷先生に恨まれることはないですけど、私は勝手に逃げたでしょう?』
『十年一昔と言いますから』
 千早がやっとの思いで話しているのが、痛々しかった。
『万が一、波谷が戻ってきても、あなたのことは話しません。 波谷が私に訊くはずがないし』
『ああ……』
 パニックに陥っていたらしい天野の頭に、その理屈がようやく染み込んだ。
『そうです。 そうでした。 ありがとうございました。 会って話を聞いてもらえて、嬉しかったです』


 天野は、だいぶ明るい声になって別れを告げていた。
 録音を聞き終えた後、望月が千早を抱き寄せて、静かに言った。
「最高の答え方だったよ」







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