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戻れない橋
80 地味な女性
翌日の十時五十四分、千早はいくぶん青ざめた顔で、ホテルに入った。
その少し前、亜矢が先に行って、さりげなくロビーに席を取っていた。 すると、緑のコートを着た四十ぐらいの女性がエレベーターを降りてやってきて、落ち着かない様子で、亜矢から三つほど離れたテーブルに腰を降ろした。
この人だろうか。
亜矢は落としたものを拾うふりをして、そっと女性を観察した。 魅力的な顔立ちだ。 だが、おしゃれとはいえない。 髪はあっさり首筋で一つにまとめただけだし、口紅の色が合っていなかった。
千早が入ってきたのは、緑のコートの女性が座る席を決めたすぐ後だった。
女性は千早の顔を知っていたらしく、ぱっと立ち上がって頭を下げた。 千早もすぐ彼女を認め、笑顔になりきらない中途半端な表情を向けて挨拶を返してから、彼女の斜め横に座った。
あいにく席が遠かったため、二人の話は亜矢には聞こえなかった。 だが、語り合う様子から敵意は伝わってこず、むしろ次第に頭が寄り添って、秘密を共にしているような親しみが感じられるようになった。
やがて二人がそれぞれハンカチを取り出したので、亜矢は驚いた。 目をぬぐいながらも話は続き、それから十五分以上経ってからようやく、コートの女性、つまり天野紀実香〔あまの きみか〕は立ち去る準備を始めた。
だがその前に、一つ用事が残っていた。 大き目のバッグをテーブルに置いてハンカチを入れた後、天野は中からA5ぐらいの大きさの封筒を取り出して、千早に渡した。 それからゆっくり立ち上がった。
千早も続いて立ち、一言二言交わした後、二人は静かに別れた。
天野はエレベーターに向かった。 このホテルに泊まっているようだ。
彼女の姿が消えてから、亜矢は急いで千早の元に駆けつけた。
「大丈夫ですか?」
封筒から出した紙を見つめていた千早は、まだ目を赤くしたまま、無言でその紙を亜矢に渡した。
それは、大きく引き伸ばした赤ん坊の写真だった。
二人はそそくさとホテルを出て、五十嵐が待っているトレーニングセンターの個室に向かった。 そこは、予約すれば会員が自由に使える部屋で、独身時代の五十嵐が疲れきったとき、仮眠のためにときどき借りていた。
部屋に入ると、そこには望月の姿もあったので、千早は息を呑み、困った表情になった。
「悟さん……」
望月は笑って、横になっていたカウチから身軽に飛び降ると、千早のおでこをポンと軽く叩いた。
「黙ってるなんて水くさいじゃないか」
「心配させたくなかったの」
「かえって心配するだろ?」
「……ごめんなさい」
じりじりして部屋の中を歩き回っていたらしい五十嵐は、亜矢を引き寄せて椅子に座らせてから、自分も横に座った。
「それで?」
夫にコートを脱がせてもらいながら、千早は張りのある声で答えた。
「悪い知らせじゃなかったわ。 天野さんは私に言いたかっただけなの。 波谷が彼女と駆落ちしたわけじゃないって」
男二人は、顔を見合わせた。
「なんで今ごろ?」
五十嵐がいぶかしげに尋ねた。
千早はテーブルに、ほっそりした両手を置き、結婚指輪をじっと見つめたまま答えた。
「ずっとこっちに来られなかったのよ。 波谷が怖くて」
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