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表紙

戻れない橋  79 先立つ不安


 翌日、つまり土曜日の昼前、五十嵐の携帯に、千早から連絡があった。
 その土曜は正月休みの埋め合わせで、いつもより多くの社員が出てきていた。 五十嵐と亜矢も、そして望月もだ。
「今日は寂しそうな顔しなかったよ」
 朝の挨拶代わりに、望月がそう言ったので、五十嵐は眉を上げて尋ねる表情になった。
「え?」
「ルリちゃん。 いつも出かけるときは泣きそうな顔になるのに、今日はそわそわしてて、平気だった」
「いつもはそんな甘ったれてるの?」
「いいじゃない。 おれもべたべたされるの嫌いじゃないしさ」
 五十嵐はへきえきして、後頭部に手をやった。
「そうかい。 うまくいってて、よかったな」
「でも今は、なんか不安だよ。 どんな小さなことでも話してくれって言ってるのに」
「おまえ……」
 五十嵐は絶句した。 アートの海に首までどっぷり漬かった望月は、これまで現実世界にあまり注意を払わず、上の空で有名だったのだ。 それなのに千早のことだけは別らしい。 ほんのちょっと反応が違うだけで、こんなにおろおろしている。
 ワークルームの離れた場所で、仔ウサギのように身軽く動き回っている亜矢に目をやってから、五十嵐は義兄弟に真実を話す決心をした。
「やっぱり遠慮しないで言うべきだよな。 夫婦なんだから。
 ちょっとこっち」
 そう言って、望月を自分の仕事部屋に引き込んだ。


 元夫の愛人が不意に訪ねてきたことを話すと、望月は深刻な表情になった。
「やっぱり何か知ってるんだよな」
「おまえもそう思う?」
「ああ。 でも証拠なんかあるわけないし、今更証明する手段もないだろう。 
「その天野〔あまの〕っていう女、ルリちゃんが再婚したこと知らないらしいんだ。 だから、前に勤めていた親父の病院には行っていないと思う」
「気まずいんだな。 院長の娘婿を取っちゃったわけだから」
「伝言の様子だと、ずっとこの辺りにはいなかったらしい。 もしかすると、波谷が消えたのを知らない可能性もある」
「先にマンション解約して、出てっちゃったんだもんな」
 今日の望月は冴えている。 もともと、絵にのめりこんでいないときは、頭のいい男だ。
 頬杖をついて一分ほど考え込んだ後、望月は言った。
「どこで会うにしろ、ルリちゃん一人じゃだめだ}
 確かにそうだ。 繊細すぎる神経が、望月と一緒になったおかげでずいぶん休まったのに、またこんな事態でぴりぴりすることになった。 千早は疲れきっているはずだ。
「亜矢がついていくと言ってくれてる」
 初めて人前で呼び捨てにした五十嵐は、恋人がいっそう身近になった気がして、こんなときでも胸がときめいた。
 ところが、望月はぽかんとした顔をして、数秒後にようやく気づいた。
「そうか、亜矢って、コドちゃんの名前か」


 そんなやりとりがあった後の電話だった。
 届いたのは肉声ではなく、メール。
『メールのほうが聞き間違いがなくて、いいと思ったので。
 明日の午前十一時、浦和のプリンセス・ホテルのロビーで会うことになりました』







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