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表紙

戻れない橋  75 楽しい季節


 五十嵐と亜矢は、春に結婚しようと話し合っていた。
 二人とも公私の区別ははっきりつけたい性格なので、会社ではこれまで通り、上司と部下のままだった。 それで、他の社員たちも落ち着き、次第に二人が婚約していることさえ忘れがちになった。
 だが、婚約者同士の間では、想いがどんどんつのっていた。 クリスマスが近づくと、それまで言い伝えや流行にはあまり関心を持たなかった五十嵐が、真剣にデート場所を探しはじめた。
「やっぱり雰囲気って大切だと気がついたんだ。 思い出は沢山あったほうがいいし」
 彼は意外なほど硬派で、初めて抱き合うのは式を挙げてからと決めていた。 だから、クリスマス・デートといっても、中心になるのは食事たった。
 そんなことを話し合っていた日はクリスマス前の日曜日で、二人は五十嵐の知り合いの写真家夫妻が開いた展示会に来ていた。 まだそれほど名が知られていないので、客はまばらだったが、内容はすばらしく、二人は端から端までじっくり見て、心から楽しんだ。
「ご主人が動物中心で、奥さんが街の風景なのね」
「そう。 どっちもいいよね。 作風は全然違うけど」
「なんか、底を流れる優しさは同じっていう感じ」
 五十嵐も同意し、数頭の狼が光の中で雪を蹴立ててじゃれあっている写真を見つめた。
「凄いな、構図がばっちり決まってる。 連写の中の一枚だとしても、奇跡に近いな」
「この写真、プログラムにもあった。 ほら」
「自信作だな。 わかるよ。 僕じゃ大して力になれないけど、Sさん(高名な写真家)にこれ見せてみよう」
 そこへ、五十嵐に気づいた夫の千賀原誠司〔ちがはら せいじ〕が、早足でやってきた。
「わっ、来てくれたんですか? 受付に名前言ってくれればいいのに」
「そんな大げさな。 それより、ご招待ありがとう。 前から引力のある写真だと思っていたけど、選び抜いてこれだけあると、圧巻ですね」
「いやぁ」
 長い顔をした千賀原は、照れて毛糸の帽子を取ると、手の中で丸めた。
「自分じゃいいと思ってもね、周りが認めてくれないと」
 そこでようやく亜矢の存在に気づき、目をぱちくりさせた。
「あ、ごめんなさい。 お連れがいたんだ」
 亜矢はこの反応を、あまり気にしなかった。 芸術家はえてして集中心が強く、周囲を見落とすことが多い。 望月など、三人で並んで歩いていて不意にデザインの霊感が沸き、やみくもに引き返そうと向きを替えたとたん、電柱に正面衝突して額を切ったというマンガのような騒ぎを起こしたことがある。
 お互いにニコッと笑って会釈した後、五十嵐が亜矢を引き寄せて、嬉しそうに宣言した。
「僕のフィアンセです」
 なぜフランス語で言いたかったかわからないが、千賀原は仰天した様子だった。
「は、結婚します? すごいな、これは」


 千賀原があたふたと、奥にいた妻を呼びに行って、四人で乾杯することになった。
「いやー、おめでとう。 僕達の写真展まで祝福された気になりますよ」
 写真展開催を祝って用意していたというルビーのように澄んだワインを掲げながら、短髪のかわいらしい千賀原夫人宮乃〔みやの〕が音頭を取った。
「ご婚約おめでとうございます。 今の幸せが更にふくらんで大きくなりますように!」







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