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表紙

戻れない橋  71 報われた心


 五十嵐が稲妻のような速さで目を上げた。
「本気か?」
「ああ」
 望月の大らかな顔には、珍しく緊張の皺が刻まれていた。
「ずっと説得してたんだ。 でも、なかなかうんと言ってくれなくて」
「知らなかった」
「やっぱり? そうじゃないかと思ってた」
 望月の肩が、ふっと落ちた。
 亜矢のほうをちらりと見てから、五十嵐は語気を強めた。
「おまえの考えるような意味じゃない。 ルリはずっとおまえに頼りたかったんだ。 でも重荷になるのが怖くてさ」
「どうして彼女の気持ちがわかる?」
 望月も珍しく尖った口調で問い返した。 目と目がぶつかったが、どちらも視線をそらさなかった。
 にらみあったまま、五十嵐は歯の間から押し出すように答えた。
「本人がそう言ってたんだよ」


 五十嵐の顔から、薄霜が融けるように陰りが消えていった。
 そして代わりに、なんともいえない温かな表情が広がった。
「ほんとか?」
 五十嵐は、まだぶすっとしたままだった。
「ウソ言ってどうするんだ」
「いや……なんか信じられなくて。 おれ、こんなに平凡だし」
「無駄に謙遜〔けんそん〕すんな」
 男二人は同時にまばたきし、次いで照れ笑いに変わった。
 それ以上の会話はなく、望月はあっけないほどあっさりと仕事に戻った。 亜矢も特に何も言わずに、自分の席にそそくさと帰った。
 とたんに真際がやってきて、肩を軽く押した。
「やっぱりだった」
「あ」
 唾を飲み込んでから、亜矢はあやふやな微笑を返した。
「急に決まってしまって」
「善は急げ?」
「さあ……」
 亜矢の代わりに塗料のスプレー缶を持ってきた河内が、にやにやしながら口を入れた。
「いいじゃないですか。 僕なんか、よく保ったもんだと思ってますよ。 コドちゃんを採用したときから、なんか型破りだったもの」
 たちまち亜矢は、困って首筋まで赤くなった。
「え? 私はそんな」
「わかってるって」
 物知り顔に、河内はうなずいてみせた。
「でもさ、いくつになっても一目惚れってあるんだよね。 僕はそう思う」


 河内の勘違いで、亜矢は救われた。 婚約発表の後でも亜矢がはしゃがず、むしろ遠慮がちになって、いつも以上に仕事をこつこつやっているので、よけい好感を持たれた。
 浮かれているのは、誰にもまだ恋を知られていない望月のほうだった。 彼は大体の時間ぼうっとしていて、突然猛烈にアイデアを現実化した後、またすぐに天国へと引き戻されていた。
 共同制作者たちは、それほど気にしていなかった。 これこそ望月の天才たるゆえんだと思って、半ばあきらめているらしい。 ときどきその様子をほほえましく見ながら、亜矢はしみじみ思った。 ここは本当にいい職場だ、と。







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