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表紙

戻れない橋  70 愛がふたつ


 五十嵐が亜矢を伴って社内に入ると、すでに出社していた受付の原がクリッとした目を上げて、まったく普通に挨拶した。
「あはようございます!」
「おはようございます」
 亜矢がすぐ挨拶を返し、五十嵐は微笑んで言った。
「いつも早くからありがとう」
 それから改まった表情になって、静かに告げた。
「急なことなんだけど、僕と古藤さんは昨日婚約しました」
 とたんに原はきちんと居住まいを正し、立ち上がって頭を下げた。
「おめでとうございます」


 亜矢はどきっとした。
 彼女と同じ年の原なずなは、見かけはむしろもっと若く見えるぐらいだが、肝心なときに実に礼儀正しい。 社会人のプロという感じだった。
 とっさに、反応してしまった。
「ありがとうございます。 個人的なことでお騒がせしてすみません」
 口に出してから、内心首をかしげた。 どこでこんな言葉を覚えてたんだろう。
 気がつくと、五十嵐が奇妙な表情で二人を見比べていた。 普段なら絶対使わない口調で、若い二人がかしこまっているのが可笑しかったらしいが、感心にも表情は崩さなかった。


 社員たちはいつものようにアバウトで、大体始業時間前後に現われ、めいめいの仕事にかかった。 今時タイムレコーダーなしの会社というのも珍しいが、社員といっても皆プロで、出来高によって評価されるため、時間での縛りはそぐわないということで、カードはなかった。
 ほとんど人数がそろった十時前に、五十嵐が静かに出てきて、棚の前でスプレーを選んでいた亜矢を手招きした。
 それを見て、亜矢の心臓がまたドキッと鳴った。 口が軽そうでいて異様なほど固い原は、真っ先に婚約を知らされたのを喜んでいたものの、誰にも話していないらしい。 立派な態度だが、亜矢にとってはむしろ自然に噂が社内に広がって、わざわざ挨拶しなくてすむほうがありがたかった。
「あの、皆さん、ちょっとお話があります」
 亜矢が横に来たのを見計らって、五十嵐が澄んだ声を響かせた。
 広いワークルームで作業中の人々が、次々に顔を上げた。 一瞬の静寂が訪れた。
 その瞬間、奥の大きな作業デスクにA0の紙を広げて、グループ三人でコラージュの位置決めをしていた望月が、不意に顔を上げて大声を発した。
「婚約おめでとう!」
 

 ざわめきが一部で起き、さざなみのように広がっていった。
 それから、自然発生的に拍手が起きた。 誰も、あまり驚いていないようだった。
 亜矢は深く頭を下げ、挨拶しないですんだようだと胸を撫でおろした。
 五十嵐が密かにライバル視していた相澤テッケンも、笑顔で手を叩いていた。 少し残念そうな影があるような気もしたが。
 望月はゆっくり立ち上がり、ぶらぶら歩いて二人に近づくと、五十嵐とがっちり握手を交わした。
 そのとき、彼が囁いた声が、亜矢の耳にまで届いた。
「俺、千早さんと住むことにした」







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