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戻れない橋  66 ガラスの心


 達郎はおたおたしながら、娘の耳に口を寄せた。
「どうした? もめてるのか?」
「ちがうの」
 ポンポンと反対方向に飛んだ父の靴を無意識に拾って揃えながら、亜矢はくぐもった声で囁き返した。
「みんな貰い泣きしちゃって」
 父はあっけに取られた。
「誰に? 亜矢の社長さんにか?」
「それも少しはあるけど、彼のお姉さんに」
 ますますわからない。 達郎はそわそわと玄関土間から上がり、リビングへ直進した。


 達郎が入っていくと、五十嵐はすぐ椅子から立って、きちんと一礼した。
「五十嵐悠吾です。 不意にお邪魔することになって、申し訳ありません」
 達郎はコートを着たままだったことに気づき、急いで脱いで腕にかけてから、頭を下げた。
「古藤達郎です。 娘がお世話になっています」
 場合が場合だけに、いささか微妙な言いまわしだった。 でも父の言葉に悪気はなく、他に挨拶を思いつかなかったのだろうと、亜矢にはわかっていた。
 母のほうはすっかり無愛想な雰囲気をなくして、ティッシュを手に持っていた。 目だけでなく、鼻も赤くなっていた。
「今、お話をうかがっているところなの。 私たちを信じて打明けてくださったのね。 パ……あなたなら、いい解決法が見つけられないかなと思うんだけど」
 妻と五十嵐を見比べて、達郎はそろそろとソファーに腰を降ろした。 明らかに混乱した顔だ。 突然結婚申し込みに来るというから、そう簡単には思い通りにさせないぞと、理論武装して戻ってきたのに、事態はまるで違う方向に動いていた。
「打明けるって、いったい何を?」
 達郎が尋ねると、五十嵐がぎこちなく答えた。
「僕はずっと前に、亜矢さんに一度逢ったことがあるんです。 その当時、僕は家を追い出されていて、建築士をめざして大工の修業をしていました」
「追い出された……」
 達郎は唖然となった。 その顔を見て、すぐ亜矢が説明を入れた。
「お医者になりたくないって言ったら、病院を継がないなら出ていけって」
「あぁ、なるほど。 しかし、放り出すっていうのはひどいな。 仕送りも何もなしで?」
「はい、自活してました。 それで父は、姉に婿を取ったんです」
「後を継がせるために?」
「そうです。 でも性格が合わなくて」
 五十嵐は、さっきまで母のあずみに語っていた話を、淡々と繰り返した。
「……それで僕は、気絶している義理の兄をこの近くにある叔父の病院に連れていこうと考えつきました。 叔父なら身内ですから秘密にしてくれるし、怪我が治ったら証拠をつきつけて、口留めできると思ったんです。 姉はもちろん、父にも迷惑をかけさせたくなかったから。
 でも後で知ったんですが、頭を内出血した患者は絶対動かしちゃいけないんだそうです。 僕がかついで運んだせいで、悪化させたと思うと」
「それは違うんじゃないかな。 救急車だってけっこう揺れるし」
 身を乗り出して聞き入っていた達郎が、思わず口を入れた。
「こう言ったら何だけど、自業自得〔じごうじとく〕でしょう? 何の罪もないお姉さんを殺して、病院を乗っ取ろうとしたんだから。 よくもそんな恐ろしい計画を思いついたもんだ。 サスペンスの見すぎかねぇ」
「ピアスまでつけて変装してたんです。 僕を不良だと思ったんでしょう。 といってもインチキ・ピアスでクリップ式だったから、ちょっと借りて、ラリったふりするときに使いましたけど」
 思い出して、五十嵐は苦い笑いを浮かべた。
「姉を巻き込みたくなかった。 義理の兄が意識を取り戻しても、あんな格好している理由を説明できなくて、しばらくは黙っているだろうと思いました。 だから救急車の後をつけて、入った病院を調べておいたんです。
 でも、義理の兄は助かりませんでした。 姉はショックと恐怖で眠れなくなり、自殺を図ったので、僕は父のところへ怒鳴り込みに行きました。
 そしたら父の病院では、義理の兄は駆落ちしたということになっていて、僕が真実を話す前に、父の方から言われたんです。 イタリアに留学させてやるから、姉を連れていって元気にさせてくれって」







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