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戻れない橋  65 洗いざらい


「間もなく、この子の父親が帰ってきますので、少々お待ちください」
 いつも以上にきちんと片付けたリビングに二人を通し、そう紋切り型で言うと、母はさっさとお茶を出す支度を始めた。 亜矢が手伝おうとしても、あっちでおもてなししてらっしゃい、と言うばかりで、取りつくしまがない。 亜矢は五十嵐と並んでソファーに座り、間を持たせるのに必死になった。
「ごめんなさい。 私の知らせ方が悪かったみたいで、怒ってる」
 五十嵐はすぐには答えなかった。 こっちのほうも腹を立てているのだろうか。 亜矢がおそるおそる顔を見ると、意外にも五十嵐はうつむき加減で、笑いになりきれない複雑な表情をしていた。
 テーブルの上をまっすく見つめたまま、五十嵐はごく低く囁いた。
「悪いのは僕だ。 自分の都合ばっかり考えてた。 すまない」
 ちょうどそのとき、出窓の棚から物が落ちてきて、床で小さな音を立てた。
 ソファーの二人は同時に見上げた。 すると、窓のレースカーテンにずんぐりした影が映り、ピンクの鼻先が縁から覗いた。
 五十嵐の笑顔が本物になった。
「ミキちゃん?」
「そう。 最初は人見知りするの」
 猫は用心深く前に踏み出し、ほぼ真ん丸の顔と太い首まで見えるようになった。 五十嵐は呼び寄せたくてうずうずしている様子だったが、我慢して知らん顔をした。 なれなれしくされると逃げる猫の習性をわかっているらしい。
 じっと見つめないようにしながら、五十嵐は感心した。
「育ったなぁ。 十倍にはなってるな」
「もっとずっと。 最初一四〇グラムで、今は五キロだから、だいたい三五倍」
「そんなに?」
 思わず声が大きくなった。 気がつくと、湯呑み茶碗をお盆に並べた母が、目を丸くして五十嵐を見ていた。
「五十嵐さん、なんでミキちゃんのことを?」
 彼の頬が緊張した。 ますます微妙になった空気を感じて、亜矢が取りつくろおうとしたとき、五十嵐はいきなりずばりと言った。
「僕が拾った猫なんです」


 母のあずみは、キツネにつままれたような表情になった。 九年前の話とはいえ、印象が強かったからよく覚えているのだ。
「え? ミキを助けたのは、確か……」
「はい、その金髪男です。 僕はその当時、大工の見習いをやってました」
 盆を持ったまま立つ母の顔が次第に青くなるのを見て、亜矢は急いで立ち上がって駆けつけ、緑茶がこぼれるのを防いだ。
「でも、その方は亡くなったと…… まさか、生き返ったんですか?」
「いいえ」
 五十嵐も立ち上がり、静かに言った。
「全部お話しします。 おわかりになった上で判断してください。 隠し事をしたままでは申し訳ないので」




 それから一時間近くが過ぎ、玄関のドアが慌しく開いた。 父の達郎が会社を早引けして、駆けつけてきたのだ。
「ただいま!」
 高い声で呼ばわりながら、靴を飛ばすようにして脱いでいると、亜矢が居間から出てきた。 目が真っ赤になっている。 そのただならない様子に、父はあせって足をからませ、倒れそうになった。







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