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戻れない橋  63 望月の真価


 五十嵐と一緒に帰るといっても、まだ目立つ形で仕事場から出る気にはなれなかった。
 それで亜矢は、母の次に室内の五十嵐にデンをかけて、自宅近くの羽貫〔はぬき〕駅で待ち合わせしようと頼んだ。
 五十嵐は、あまり乗り気ではないようだった。
「もうはっきりさせたほうがいいよ。 すぐにわかることなんだから」
「でも、できれば全部決まってからにしたいんです」
 珍しく、亜矢は頑固に主張した。 職場のさっぱりしたなごやかな雰囲気が好きで、特に望月の浮世離れした芸術家気質が好ましかった。 彼に嫌われないですむよう、細心の注意を払いたい。
 言葉が途切れている間に、五十嵐はいろいろ考えて、亜矢がためらう理由を思いついたらしい。 不意に衣擦れの音がした後、ドアが開く音が続いた。
「な、望月、ちょっと来て」
 わー!
 亜矢が表廊下でばたばたしていると、すぐ切り返して電話から聞こえた。
「コドちゃんも入ってきて。 今すぐ」


 亜矢は覚悟を決め、電話をしまおうとして、手が汗で湿っているのに気づいた。
 五十嵐代表の部屋は、受付から直〔じか〕に入れる。 亜矢は受付の原なずなに緊張を隠せない笑顔を見せて通り過ぎ、代表室のドアを開けた。
 すると、びっくりする光景が目に飛び込んできた。 五十嵐と望月がグラスを高くかかげて、今しも乾杯するところだったのだ。
 亜矢がドアの敷居で立ちすくんでいると、気づいた五十嵐にサッと引っ張り込まれた。
「おいでよ。 そんなところにいると目立つ」
「でも」
 亜矢はまだためらいがちだった。 そんな彼女に、望月が眠そうな表情で叱るように言った。
「なんなんだ? 五十嵐を断る気?」
 亜矢は目をむいた。 想像もできない詰問だったのだ。
「え?」
「考えなさいよ」
 望月が父のように諭した。
「五十嵐は会社の大黒柱だ。 その上、気の弱いお姉さんもこいつに頼ってる。 五十嵐がこの責任の重みでペチャンコになったら、コドちゃんどうしてくれる?」
「は?」
「やめろって」
 亜矢がたじろいでいるのを見てとって、五十嵐がたまらず口を挟んだ。
「そんなこと言うと、本当に断られそうだよ」
 亜矢は二人を見比べ、不意に悟った。 望月はすべてを知っているのだ。 彼は芸術の世界にひたりきっているように見えて、実は誰よりも五十嵐を理解し、人には見せない彼の弱さを包んで、ずっと支えてきたのだと。
「何でもご存知なんですね」
 溜息に近い声で亜矢が訊くと、望月は満足した大猫のようににんまりした。
「相談には乗ったよ。 だから言ってやったの。 五十嵐がいじけてるなら、オレが先手打っちゃうぞって。
 ねえコドちゃん、僕が先に申し込んだら、うんと言ってくれたよね?」
 亜矢は瞬きを忘れて、望月を見つめた。
 そして気づいた。 五十嵐の気持ちを知らず、望月にアタックされていたら(とてもそんなことはしそうにないが)、ついていってしまったかもしれないと。
 それは多分、恋ではない。 でも、望月といると、いつもふんわりしたいい気持ちになれた。 彼を尊敬していたし、まちがいなく大好きだった。
「そうですね、望月さんなら」
 部屋に張り詰めた緊張が、ふっと解けた。
 亜矢はいたずらっぽく続けた。
「でも、申し込んでくれませんよね?」
「僕、エネルギーないからね。 若い人の元気にはついていけません」
 望月は、あっさり言った。









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